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  [++ 佐目 ++] (さめ)  旧神崎郡永源寺村:山上村に属した村
 もともと佐目の村は佐目子谷の出合い付近、愛知川左岸の袋状の段丘上に位置していたが、永源寺ダム建設と同時に湖底に沈み、現在は「牛ガ額」と呼ばれていた場所に移築されている。鈴鹿山麓は奥山で雪も深く、田畑は生業には向かず、植林や茶、蚕の栽培が主であったが、この村だけが段丘上に位置していたという事から唯一、米作が盛んであった。
  佐目の村にはトンネルを越えて右の細い道へ入ると、突き当たりに若宮八幡神社があり、村の氏神になる。そこで若宮八幡宮と塔尾金神社の二つが祀られている。米作が主とされていただけに雨乞信仰と密接な関係を持ち合わせる。人々は若宮八幡神社で雨乞いをして、芳しくなければその御神体であるお金の塔まで佐目子谷から拝坂尻、大峠、北谷尻谷、コリカキ場という長い道程を歩いて祈雨登拝していた。お金の塔では、三日三晩、鉦太鼓を叩いて祈雨し、三日で駄目なら五日、七日と続けた等、殺伐としたものである。雨乞いは
「アメチヨボ、ブチヤケ、ザンザト、ブチヤアケ、ザンザラザント、ブチヤケ、ブチヤアケ」と祈雨された。
   
 もともとは永源寺派の大龍寺という寺があり、村人はすべてその寺の檀家であったという。婚姻は大半が村内婚であった。また佐目の村はかつて、お金の村と称されており、鉱夫の村と言われていた。金は銭ではなく、金、銀の事である。お金の村が佐目となった村名の起こりは、様々な伝承話がある。佐目子谷の苔をとって飲むと腹痛に効くという伝承もある。以前は佐目子谷にイモナ(岩魚)の養魚場があったらしく、昭和4年11月20日より京阪地方に出荷が行われたとの話が残っている。
 
 現在、永源寺ダム湖畔道路に佐目バイパス工事(橋三本とトンネル四カ所を設置)が実施されているが、道路延長全5.6kmの内、約2.9kmの範囲が鈴鹿国定公園の特別地域に含まれる事で、平成9年の夏頃から10ヶ月間、環境影響評価が行われた。結果、第4トンネル予定地である越渓橋の付近で絶滅危惧種に指定される保護義務種のクマタカが見つかり、工事による間接的な影響が生態系にあるとして繁殖期(12月から翌年4月迄)の工事を完全に休止とし、トンネル内での発破火薬量を30%削減、低騒音型重機の使用などが講じられた事もあった。クマタカ、イヌワシ、オオムラサキ等、貴重な動植物が多数生息する事もあり、鈴鹿山系が豊かな環境を抱えている指標となっている。
 
 佐目の茶摘み詩  「宇治は茶所 茶は政所 味のよいのは 九居瀬の茶」
佐目   佐目
山ノ神 「佐目子谷」   若宮八幡神社

  [++ 萱尾 ++] (かやお)  旧神崎郡永源寺村:山上村に属した村

 昔からこの辺りはカヤの生育が良いという事が村名の起こりと言われていた。明治44年、萱尾発電所設置までは、村にはまともな道が無かったが、それを期に村の道路も整備され、大正2年に萱尾〜小代間に越渓橋が完成した。
 萱尾は永源寺ダム建設により湖底に水没した村である。一部が「上出」という場所に移築され、小さな在所として今も残っている。
 ダム建設により水没したのは、佐目、萱尾、九居瀬、相谷の四つの村落。九居瀬は現在も地名として残っているが、村として人の佇まいは無い。もともと村は惟喬親王の従者が開いたと言われていたらしく、七九居瀬と呼ばれ、下流から「新田、切り通し、中九居瀬、鍛冶屋村、棚池、牧、小代」の七つの小さな村から成り立っていた。ダム建設に備え、移民が始まり、結果、村は消えた。
 
 萱尾には昔、永源寺派の渓雲寺という寺があり、村人はすべてその寺の檀家であったという。そのまだ昔は本覚寺という寺があったらしい。氏神、大滝神社も古くから雨乞いの神として祀られた場所で、上手にある谷の口には「鮎滝、中滝、なめり滝、からと滝、とぎ落とし滝」という五段ノ滝があり、大滝(萱尾滝)と称され、愛知川の源として崇められていた。そこは何とも言えぬ素晴らしい景勝地であったという。大滝神社には一つの能面が祀られている。
 共有山(惣山、サンナイ)も多く、黒尾山を主に木業を生業にし、萱尾の山ノ神祭の御神体は大木で、それは大滝神社の上手と萱尾滝の付近の二カ所に存在していた。竜神の伝説や伝承話が多く残り、大滝神社も雨乞いと密接な関係にあるものの、萱尾には水田はほとんど無く、茶畑が主体だった。
 また当時は一升瓶ほどの大きなビワマスが萱尾滝まで遡上していた。大滝神社はダム建設とともに、その大役を終え、現在は湖畔沿いに静かに佇んでいる。萱尾の婚姻は村内婚ではなく、大半が他の村との町内婚であった。現在も在所の飲用水は不動谷から引かれている。
 台風や大雨によって永源寺ダムに流れ込んできた流木は萱尾地先の集積場に運搬され、キャンプ等の焚き火や薪に使用すればと、永源寺ダム管理事務所が有効活用を呼び掛けている。御入り用の方は管理事務所に問い合わせみては。
 
 萱尾の茶摘み唄  「高い山から 谷底みれば うりおすびの花盛り」

萱尾   萱尾
大滝神社   萱尾村

  [++ 黄和田 ++] (きわだ)  旧愛知郡永源寺村:東小椋村に属した村
 古くから街道沿いにあった村であるが、現在は八風街道が江勢道路、国道化して整備された事で、隠れた存在になっている。ここもまた炭焼きが非常に盛んであったが、村の外れに祠があり、山ノ神が祀られているとの話。
 この山ノ神は女で、山入りの際、猥談は御法度だったらしい。1月7日と11月7日が山ノ神祭で、なぜか分からぬが山ノ神はオコゼを好んだという。海の産物、それも珍品オコゼなど当時入手できるはずもなく、米粉で似せて作ったものを御神体として供えたという。自分があまり容姿端麗ではなかった事を山ノ神は大変思い込んでおり、醜い鬼オコゼを好んだという話である。この山ノ神祭は付近の村々の中でも、かなり異色であったと記録されている。
 
 裏手の「岳」という山と関連が深い。氏神は日枝神社、寺は大善寺。山ノ神峠を始め、山神信仰と密接な関係を持ち、日枝神社で一つの面が祀られているが、それを天にさらすと雨が降るという伝承話が残っていると聞いた事がある。黄和田には水田があったからであろうか。
  黄和田  
  黄和田の風景  

  [++ 蓼畑・中畑 ++] (たではた・なかはた)  旧神崎郡永源寺村:山上村に属した村
 蓼と畑、何とも山麓に佇む山里に相応しい村名である。その昔、惟喬親王に愛知川で捕れた小鮎鮨を蓼の葉を引いてお出しした際、親王が喜ばれ、それが縁で村名になったとの話が残る。それだけに木地師との関わり合いも、かなり深い。
 中畑、蓼畑それぞれ違う在所だが、愛知川本流と御池川との出合い付近に位置している。中畑は少し北側で政所の一部とも思える場所にある。大正2年、蓼畑から杠葉尾−黄和田の対岸を通る新道が完成、同12年には、蓼畑と対岸を結ぶ渓勢橋が完成した。蓼畑の氏神の寺は正円寺。蓼畑も最後まで第二永源寺ダム建設に反対を示した在所である。
  蓼畑  
  正円寺  

  [++ 政所 ++] (まんどころ)  旧愛知郡永源寺村:東小椋村に属した村
 その昔、木地師発祥と言われたこの辺りの村落を小椋村、小椋谷(政所・九居瀬・黄和田・箕川・蛭谷・君ヶ畑)と称していたが、その中心地に当たる村で、愛知川、御池川左右の川岸に広がり、一帯では一番大きな村になる。後に紹介する筒井神社は木地師の公文所と呼ばれているが、公文所は別の言い方をすると政所とも言う。中心地だけに村名の起こりは、これが起源ではないかと言われている。大正3年、荷車が政所の如来堂まで通じた。

『宇治は茶所、茶は政所、娘やるのは縁所、味のよいのは九居瀬の茶♪』
という茶摘み唄があったように、政所茶(煎茶)の栽培が非常に盛んに行われていた。現在は茶畑を目にする事もあまり無い。当時の生業は茶に加え、木業、炭焼きが盛んであった。共有林も多く、山ノ神は、ヤカタの中に祀られた丸いウブイシ(生石)と言われた。
 昭和30年における村の世帯数は136軒、人口総数が545人とある。昭和50年になると世帯数は百軒を切り、人口は三百人を少し越える程度に減少している。
 現在も藁葺き屋根の住まいが少し残っている。故山本素石がよく宿を取ったとされる肥夏屋、永源寺ダム建設により水没するはずの民家を数軒移築して造ったという一日一組の宿、日登美山荘なども、住所で言うと、この政所。
 氏神は八幡神社、寺は光徳寺。八幡神社には様々な顔をした三十もの面が神宝として祀られており、当時の民俗風習の深さを伺い知る。愛知川上流漁協組合も政所にある。
政所 政所 政所
茅葺き屋根の佇まい 光徳寺 日登美山荘

  [++ 杠葉尾 ++] (ゆずりお)  旧神崎郡永源寺村:山上村に属した村

 石榑峠、三重県へと続く八風街道の近江側最後の村である。八風街道は大正6年に街道と認められた。それだけに峠を越え、伊勢から大勢の茶摘み娘が加勢に来ていたようで、それを縁に婚姻したという人が村にはかなり居た様子。大半が茶縁だったという。
 氏神は春日神社、寺は光林寺。イワナ養殖で知名度のある須谷川池田養魚場や辺りには、いくつかのキャンプ場が広がっており、シーズン時は家族連れのキャンパーで賑わっている。銚子ヶ口への登山道もあり、共有山(惣山、サンナイ)の権利も多く、銚子ヶ口を主として山と密接な関係を持っていたのであろう。それを象徴するがの如く、須谷川の谷間の奥には大規模な炭焼窯の跡が広がっており、炭焼きを生業の主としていた事が伺える。若干の水田もあったようである。
  炭焼窯は円形で縦横ともに9尺5寸、高さが4尺弱。この窯で焼いて4貫俵仕上がり、製品になるのは約40俵だったという。窯を築くのは20人位必要で、築く際は大安など日の良い選び、仏滅、三隣亡は避けた。秋は焚き付けに丸1日かかることもあったらしい。火がつくと36時間燃やす。この間は目を離せず、親の死に目にも会えないほど。最奥の村という事で山釣りへの旅の入口といった役目を果たしているように思えてならない場所である。
 
 昭和22年、杠葉尾から茨川に入る茨川林道の工事が開始され、茶屋川を囲む山腹を切り裂いて、同30年に林道が完成した。杠葉尾から国道421号線を三重県側に約1キロ
程進むと、その昔様々な旅人のノドを潤したと言われる清らかな湧水「京の名水」がある。
 現在林道沿いでは第二永源寺ダム建設における調査が行われ、また石榑峠では県境の狭路と冬期通行止めを解消すべく、国土交通省直轄事業として予算編集し、国道421号線、滋賀県東近江市黄和田町より三重県員弁市大安町石榑南間にバイパストンネル工事が予定されている。三重県側は道路整備、改良がほぼ終了し、滋賀県側(黄和田〜杠葉尾)は現在、整備改良中。全長が約4.5キロ、大半は隧道(トンネル)となる見込みで、滋賀県側バイパス分岐点は現在の八風峠へ分かれる八風谷橋付近。完成すればトラックが行き交い、交通量は今よりも増加するのであろう。

杠葉尾 杠葉尾 杠葉尾 杠葉尾
水田の風景 萱葺き屋根の佇まい 春日神社 光林寺


   ※ 神崎郡永源寺村 (山上村)   佐目、和南、相谷、山上、萱尾、蓼畑、杠葉尾
※ 愛知郡永源寺村 (高野村)   高野
※ 愛知郡永源寺村 (東小椋村)  九居瀬、黄和田、政所、箕川、蛭谷、君ヶ畑、茨川
※ 蒲生郡市原村          甲津畑

  明治22年4月  町村自治制が施されて、愛知郡東小椋村として統括される。
  明治25年4月  高野村が行政関係上の理由に山上村を分かれ、一字一村自治制で愛知郡高野村となる。
  昭和18年4月  山上、高野、東小椋それぞれ三村が合併。神崎郡永源寺村となる。
  昭和30年4月  蒲生郡市原村、神崎郡永源寺村との合併。神崎郡永源寺町となる。
  平成17年2月  一市四町合併により東近江市となる。

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