第13話 彩と岩魚


様々な顔を持つ渓の彩に風情を感じて




 蒸し暑い。早朝だと言うのに私を取り巻く空気はすでに、汗ばむ陽気を漂わせていた。今日の目的もまた茶屋川であった。
 数日前に降った雨も悲しい事に僅かな足しにもならず、茶屋川の本流は相変わらず水位は低い。少々の雨が降ったところで平常の水量を保つことは出来ず、渇水時期を基本に見ているので、雨後は増水気味と錯覚を起こすだけであり、永源寺ダムは相変わらず集落跡を覗かせていた。
 この辺りの茶屋川は御池川の源流のような渓相をしており、拓けた石の敷き詰まる平流が両岸いっぱいに広がって流れている。時折、創る澱みはきれいであるが、なかなか渓魚の姿は見えない。渓の中央をジャブジャブと切って歩いて行く。
 渓畔林の生い茂る右岸から割って入るように滴る流れが見えると、少し分かりづらいが支谷の入口である。
 本来この谷がC谷であり、林道沿いから見えるC谷はK谷、K谷はW谷と思える。足谷同様、ヒキノに直接突き上げるこの谷は流程は短いものの、12mほどの滝を始めとする小滝が見られ、谷は美しい。この谷の滝上はまだ入渓した事が無かったので、今日はその滝の上が目的であった。
 登山地図を見るとヒキノの尾根までさほど遠くないと思えるので大体、渓相の察しは付くのだが何か居そうな気がするのである。渓の様々な彩を満喫しながら今日の主役は岩魚。

 もともと思い入れの強い茶屋川であったが、このところその思い入れがより一層強まってきている。場所によれば4〜5年ぶりという谷もあり、懐かしい思いが甦る場面もしばしばある。私の紀行文もすっかり岩魚の話に定着してしまい、雨女魚の話にも触れたいのは、やまやまなのだが如何せん鈴鹿の滋賀側の谷では雨女魚の歴史はなく、源流で雨女魚に出会える場所は一部の谷しかないのである。

 三重側の谷にかつてアマゴ、ヤマメの変異種「イワメ」という魚が棲息していた話はあるが私は三重側の谷は源流の極一部に入渓した事がある程度で詳細を語る事は出来ない。無斑雨女魚、無斑山女魚と言った方が分かりやすいだろうか。
 名前からするとイワナの血統が入っているかのようだがあくまでもアマゴ、ヤマメの変異種という説が有力らしい。したがって岩魚しか棲息しなかった滋賀側の谷ではその魚を目にする事はない。このイワメという魚の棲息分布には偶然とは思えぬ一定の法則がある。
 (財)淡水魚保護協会機関誌、第10号1984年「淡水魚」の分布図によると茨城、神奈川、三重、高知、大分の渓で確認されており、この棲息分布は直線に並ぶのである。その謎は解明されていないようであるが大自然の何かが関わっていると思える事柄である。紀伊半島に棲息したキリクチ等と同様、絶滅したと言われるその種であるが近年釣り上げたという事例もあり、源流の奥深い場所に今でもひっそりと暮らしているものと思われる。間違ってもキープは慎むよう心掛けていただきたいものである。

 滋賀の谷でも岩魚については様々な不可解な点がある。突き詰めて考える釣り人はさほど多くないとも思えるが幾分として疑問を抱いている釣り人も多いはず。ヤマトイワナとニッコウイワナである。昔から岩魚の生態については様々な種が確認され、釣り人もその都度、混乱していた様子であったが今西錦司博士により独自の調査で北海道のオショロコマと本州に棲む岩魚を二分化したとされている。一般的な分布図に基づいて記録されているのは本州中央、富士川などの山岳源流から琵琶湖東岸の河川に分布するのがヤマトイワナであり、本州全域に渡って分布するのがニッコウイワナである。
 という事は滋賀県の渓で言うと生息分布を二分しているのが琵琶湖という事になり、その東西で棲み分かれ、比良水系ではニッコウイワナ、鈴鹿水系はヤマトイワナがネイティブという根源になる。
 故山本素石著の「近畿を中心とする渓流の釣」1967年、「西日本の山釣」1973年、には様々な当時の愛知川の魚影の濃さ、雰囲気が記されているものの、岩魚の種については「イワナの南北」で鈴鹿には全く無地の岩魚が居ると、記載がある程度で詳しい事は全く記載されておらず、書籍にも渓魚のカラー写真はほとんど見当たらない。最もこの時代には岩魚の種を突き詰めて研究する者も居なかったようである。
 昨今でも滋賀の谷に触れた書籍は若干出版されているが、年代で言えばこの辺りの書籍が一番古い物になり、真実性もあるのだが残念である。しかしこの鈴鹿水系の岩魚がヤマトイワナだという事に私のような素人はよく理解が出来ないのである。と言うのもヤマトイワナは白色斑点はほとんどなく、体側に朱紅色で側線を中心に並列した模様が特徴であり、成魚でもその色彩は変化しないとされている。ヤマトイワナにも斑点の濃い薄いなど地域によって様々な種が存在するとされているが、鈴鹿水系で上がる岩魚には側線を上下に並列する朱紅色斑点がある岩魚はまず上がらない。すべて側線の下部に斑点をちりばめるものである。
 これはかつて「うちの岩魚はオショロコマだ」と岩魚養殖に自信を持っておられた現在の池田養魚場の先代が作った岩魚だと思える。以前触れたように養魚場の岩魚は渓流釣りの有志達によって鈴鹿の様々な谷へ岩魚を残そうと放流していたものが繁栄を繰り返し、居着いている。ここの岩魚は白斑点もクッキリと鮮やかで橙色や薄紅色の斑点をちりばめるのが特徴である。

 私もいつの間にか愛知川水系のあらゆる谷を釣り歩き、今となっては入渓した事の無い谷はおそらく無いと思えるようになってしまった。支流のまた支流や小さい谷も含めてすべてである。
 無論それだけで岩魚の種を判断出来るはずはないが、少なくとも場所によって様々な顔をした岩魚を釣った事は事実である。その中であまり人の立ち寄らないと思える源流で上がる岩魚はパーマークが若干薄く、白斑点も少なく、さほどクッキリとは模様されていない、着色斑点は一切無い岩魚であった。見た目には鮮やかではなく暗い感じのするイワナである。
 私はこの一部の源流域で釣れる岩魚が鈴鹿滋賀側の谷のネイティブと今でも確信しているのだが、これがヤマトイワナに分類されるというのがよく理解出来ないのである。全国58河川のネイティブ岩魚を探索した「イワナの顔」白石勝彦・和田悟著 (山と渓谷社)で白石氏も同じ岩魚を釣り上げているようであったが、氏もまたこれが愛知川の在来岩魚の否かは確信が持てないと記されている。
 人が入らない場所というのは一部のハイカーが歩く釣り人の少ない場所、所謂入渓しづらい奥深い場所でよく上がった岩魚と考えてもらいたい。現在本流では数は少ないが岩魚も釣れ上がる。しかし本流や少しの谷を詰めたくらいではこの岩魚はまず上がらない。言われてみれば体色はヤマトイワナに近く、ニッコウイワナ特色の白斑点も少ないのでそういう気もするのだが私には到底分からない。
 しかし、鈴鹿特有の流紋岩魚や無斑岩魚はヤマトイワナのグループに属すると考えられており、それは鈴鹿、滋賀の谷のネイティブがヤマトイワナであることを意味するワケで、考えれば考えるほど謎は深まる一方である。

 また養魚場の主も鈴鹿の岩魚を見れば一目で自分の物かどうかは判断が付くと言っていたが、様々な種が繁殖を繰り返し、生態が変化している事も事実だという。やはり岩魚という魚はその場所の環境によっても様々な変化を遂げる魚であり、底砂が白ければ白っぽい岩魚になるし、黒ければ黒い岩魚になる。その岩魚が交配してゆくと、色んな種が生まれる事も当然であれば当然である。
 養魚場の主は毒流しで一気に岩魚が激減した時期があり、有志による放流もあったため、どれが在来なのかハッキリと分からないと言っていたが、昔の毒流しで絶滅したとも考えにくいので、中部などで見られる鮮やかな朱紅色の斑点をちりばめたヤマトイワナでなかった事は確かにせよ、ネイティブ岩魚が源流の奥深い場所に生息していても不思議は無い。こうなればやはりあの岩魚が在来種なのである。ご参考までにその岩魚は私の紀行文の写真で幾度と登場している。

 流紋岩魚に詳しい三重の武田恵三氏の元へある文献を拝見したいと言う事で先日、電話をさせてもらった際に、今年から琵琶湖博物館の専門家が琵琶湖に流れ込む川の在来岩魚の種について詳しい調査を始めていると耳にし、これはいい機会だと私はその専門家である博物館の桑原氏に少し訪ねてみる事にした。会話を交わすうちに在来岩魚の問題は予想通り我々、素人が考えているより遙かに難しい問題であると改めて実感した。詳細を書き出すとあまりにも長文になってしまうので割愛するが結論を申し上げると分かっていないから研究するのであって、確実な解答があるはずもない。ただ、在来魚の調査と言ってもすでに時代を遡る事はできず、有志達が放流していないと思われる
 谷の岩魚等、現在棲息する岩魚からその解答を導き出すしかないのが現状のようである。有志による放流も昔のものは記録が残っておらずその真偽を問う事も難しい事を付け加えておこう。
 まとまりがない話になってしまったが私の実際の所感は鈴鹿の谷でずっと暮らしてきた在来魚との出逢いは大変嬉しい事であるが鈴鹿のネイティブはそれぞれの釣り人の心の中に存在すれば良いのではないだろうか。
 鈴鹿を知るという事で一度は触れてみたい事柄ではあるが鈴鹿の岩魚と戯れるという事はもっと別のところにその趣があると私は思う。

 話が非常に長くなってしまったので本題に戻そう。細い流れの序盤は見送り、しばらく歩くと岩溝から流れ出る落ち込みが続き出す。しかし右から左から飛び出す小枝に歩きづらい。
 落ち込みの至る所に枯れ木が散乱しており、少し渓流美も見劣りする印象であった。その上、人があまり立ち入らないせいなのか、行く手にひどい蜘蛛の巣が掛かっており、歩く度に顔にへばりつくのである。
 餌をポイントに送りこもうと竿を振れば、水面に落ちる前に蜘蛛の巣に引っかかる始末。ある意味、ヒルよりもタチが悪いかもしれない。しかし、心境的には魚影が濃いだろうと躍動する部分もあり、趣は増えるのであった。
 竿先に蜘蛛の巣が巻き付き、何度も道糸を絡ませながらも丹念に落ち込みを探ってゆくと、なかなかのペースで岩魚が釣れた。7寸弱を筆頭に後は小さなサイズであったが予想通り魚影はまずまず。

 ここには居ないかと思えるほんの小さな流れにも餌を水面に着地させれば、沈ませる前に水面までライズしながら食うほどに野性味溢れる岩魚は飢えていた。ほとんどが餌を送り込むと同時にアタリが来る。
 中でも愛嬌があったのは、4cmくらいの稚魚であった。こんな奴までもが自分の口より大きな餌を食いに来たうえ、ハリに掛かるのであるから不思議である。
 やがて少し小滝が顔を出し、釣りの意欲は上昇するが今日は谷が短いため、スローペースで釣り上がる。少し歩いて立ち止まり、野鳥の声に耳を傾け、タモ網の中の岩魚の顔を眺めたり、手の中から落ち込みの岩陰へと帰る岩魚を姿が見えなくなるまで見送ったりするのであった。小滝は飛沫を浴びて登れるようなものは少ないのでシャワークライミングとはいかないが、ふと視線を左右に向けると、そこには素晴らしいグリーンシャワーの世界が取り囲んでいる。わずか一週間程度でこれ程までに彩が変わるものであろうか。変化する渓の彩と様々な岩魚の顔、ここの岩魚も着色点の無い原始的なものであった。

 この谷も例の如く、炭焼窯の跡が非常に多い。かつては岩魚も山での食料として貴重な存在であったに違いない。魚影は濃い状況が想像出来るので他の谷から持ってくる事はないであろうが、下流から滝上へと源頭放流などは十分に想像出来る。マタギ等が代表的な人の知恵である。
支谷の滝(484KB)5秒
Winの方はQTをDLして下さい
 谷の中盤まで来ると、左右の山腹を見る限り、どこからでも尾根に取り付けるような風景であった。さすがに今日はノドがよく渇く。ザックに忍ばせたビールがもう半分も減っていた。大体、釣り歩く時は場所にもよるのだが135ml缶を6本、250mlを3本と、大きな缶は嵩張るので小さな缶を敷き詰めるようにしている。
 ようやく二俣に出合い、本谷である右俣には12mの滝が待ち構える。滝はスローモーションのようにゆっくりと優雅に流れている。決して荒々しくない、正に谷のハーモニーを要める時間が止まる空間である。私はゆっくりと滝下へ近づいた。
 谷も渇水気味なのであろう、極少量の水が佇む程度のものであったが水面は遙か上部より流れ落ちる水飛沫で波紋が轟き、岩盤は見えない。身を屈めて静かに竿を振った瞬間、谷の精霊が道糸を激しく揺すった。
 「いい手応え」
波紋の水面を切って宙に舞ったのは8寸に少し足らない大きさの岩魚であった。浅い割には大きいのが居たな。昼飯に一尾頂こう。
 岩魚を魚籠に収めた私は左急斜面をゆっくり登り始めた。なかなか足場が悪いではないか。しかし滝上を期待していた私の足は着実に足場を捉えて進むのであった。
 滝のたれ口が見え始めるとそのすぐ上に大きな溜まりがあった。またそのすぐ前方には切り立つ小滝も見える。「小滝の連続か、なかなかええ感じやな」
 両岸の迫った滝上に下り立った私はすぐさま竿を出し、糸を垂らした。しかし、溜まりにも小滝にも岩魚は居なかった。餌が好ましくないのか、、釣り上げた岩魚の腹を割くと、珍しい物は食しておらずもっぱら水生昆虫や虫であった。

 左側を直接登って上へと上がるとまた滝が現れる。滝の上部はナメ床のような岩肌をすべり落ち、そこからすだれ状に落ちている美しいものであった。滝の連続に心は躍るが肝心の岩魚は居ない。
 この滝を過ぎると平凡な源流状の流れとなり、それがしばらく続いた。しかし、いくら竿を振れど岩魚は一行に掛からず走り去る影も全く見えない。私は岩魚を求めてどんどん歩き始め、気が付けば水が完全に涸れた源頭まで来ていた。
 「岩魚おらんな、、、」
滝の良い写真が撮れた、こう考える事にしよう。そう言いながらも私はまた岩魚が居るか居ないか分からないような谷を歩くのであった。
第十三話 完
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