第22話  深山に棲む精霊


森のざわめき、水の音、谷の精霊、そっとその神秘に触れてみよう




 「あの谷の岩魚はどうなったろう、、、」
今シーズンの序盤、この谷の源流付近で溢れるほどの岩魚を見た。あれから数ヶ月、珠玉の一尾として育ってくれている奴も居るかもしれない。私は自分自身の中で妄想を描き、今日のドラマをすでに完成させていた。

 9月も終盤になると夜明けも遅い。5時に少しばかり満たない時間であったが、物の怪でも出そうな真っ暗闇の林道を走っていた。車のライトに驚いたのか、小さな野ウサギが私の前をちょこちょこと早足で走り去り、少しの間、追いかけっことなった。日の出を待ち構える釣り人らしき車も見られ、いよいよシーズン終盤に差し掛かり、力漲るといった感じか。目的の谷の入口付近に差し掛かるとすでに一台の車が止まっていた。
 「早いな、、、もう来てるんかいな。」
まだ薄暗い最中、男性二人はすでに支度に取り掛かっている。林道脇へ車を切り返し、声を掛けてみた。
「どこへ入られますか?」 男性は「○○○へ」、どの辺りまで行かれるか訪ねると最源流までという事であった。
 もうひとつ最悪である。私と全く同じ予定ではないか。午前1:00にすでに到着していたのだという。私には、ちょっと真似出来ない事である。いつもであれば場所替えするのであるが、今日はどうしても源流の岩魚と戯れたい。まぁ、たまには人の歩いた後を釣るのもいいかもしれない、私は後から釣り上がる事を告げ、男性と少し言葉を交わした。餌はぶどう虫しか用意していないという事が唯一の救いであった。都合の良い事に今日は天然のドバミミズを用意しているのである。「これはイケるかもしれない」、私の頭の片隅に一陣の光が過ぎった。
 今回のような入渓直前にかち合う事は正直なところ、あまり喜ばしくないが奥深い谷間や深山で人と遭遇すると、どことなく妙な親近感湧いてくるものである。我事は棚に置いて、こんなところで人に逢うはずもないという固定観念が働いているがゆえに、その偶然性が妙な喜びに変わったりする事もある。
 人がいれば魚が釣れないといった釣欲的な事柄ではないが、本来私は出来るだけ人があまり入らないと思われる場所を歩くのが好きである。それは現実との境界線がハッキリと分別されており、点在する様々な描写がモノトーンの世界を繰り広げてくれるからといったことが強い。しかしながら深山での出逢いは自分の思想との共通点も非常に多いと互いに思うせいか、都会では成し得ないベールがいとも簡単に剥がされるのである。これもまた山の趣のひとつであろう。
 鈴鹿の谷を歩いていてふと思う事がある。鈴鹿中部の山麓はかつて鉱山が盛んであった事は以前にも少し触れた通りであるが、その鉱山の最盛期であれば採掘の影響で渓の水はかなり汚染されたとの記録もあり、その影響が渓魚に対してなかったのかという事である。

 鈴鹿山麓の鉱山で代表的なものを上げると弥栄鉱山、治田鉱山、高昌鉱山、御池鉱山、国位鉱山、大蔵鉱山、向山鉱山、大平鉱山、茨川銀山と様々であり、高昌鉱山、御池鉱山一帯はかなり大規模な発掘作業が行われていたせいか、付近の平地には住居はおろか、小学校や郵便局までもがあったという。そのせいか水場の付近が非常に多い。
 愛知川水系に関わる古い書物を見れば、大体どの支流も岩魚で溢れていた事は何度も触れているが25年ほど前にして神崎川のジュルミチ谷と上流に位置する谷にはどういうワケか渓魚が一切棲んでいないとされている。確かにジュルミチ谷は「近畿の山と谷」(住友山岳会)でもこの上ない酷評を受けた谷であり、現在でもほとんど魚影は見られないが上流に位置する谷には有志による放流もかなり盛んであったため、今日では神崎川の支谷の中で魚影は多い部類に入ると感じる。その支谷の奥にはかつて上記のある鉱山が開かれていた。
 その昔、鈴鹿の谷をくまなく歩いた釣り師達が入渓する以前に、一度は鉱山の影響によってその谷に居着いていた岩魚が次第に減少していった運命を辿ったとも考えられる。しかしその当時は今ほど林道なども整備されていないため、それほど奥の源流部まで善意放流していたとは物理的にも考えにくい。
 茨川の蛇谷銀山の最盛期は江戸中期で当時の渓魚に関する情報は皆無であり、その辺りは不明だがかなり水は汚染していたと思え、とても渓魚が棲息出来る環境ではなかったのではと推測出来る。その後、どのような経過があったのかも不明であるが魚影がかなり濃かった事は事実である。なぜ同じ渓の谷の中で岩魚が棲む谷と棲まない谷が分かれていたのか実に不思議だがおそらく木地師や炭焼き、鉱山の山稼衆などによって岩魚が移植されていた事がひとつの要因であろう。その真偽は謎に包まれたままであるが。

 少し時間を空けて、私は鈴鹿の香りが充満する谷間を上流の楽園目指して歩き始めた。渓はかなりの渇水状態。しかしこの谷は樹林の風景、野生動物、渓流美、点在する歴史と見るものが非常に多彩であり、谷の口へ一歩足を踏み入れると、何とも言えない興奮と谷が持ち合わせる神妙な風が私自身を取り巻いてくれる。概ね谷筋を一時間ほど歩いてからの竿出しが常である。
 谷間は時に樹林が大きく覆って薄暗く、両側は切り立ち、黒い岩肌が目立つ小ゴルジュを思わせる情景を映し出すかと思えば真上から射し込む陽光が谷を明るく煌めかせるといった光景が断続したりと谷を行く者の心をくすぐってくれる。左右の二次林に囲まれた台地には数多くの炭焼き窯の跡が点在しており、山での生業の活気を物語っている。それもこの豊富な樹林があっての事であろう。炭焼きに適した木材と言えば自然林や二次林である。
 かつて窯の付近にはハンバと呼ばれる小屋が建てられており、炭焼きで山に入れば最低でも一週間は小屋での生活であった。食料供給といった名目で岩魚もさぞかし移植されたのだろう。岩魚の移植は本谷よりもあまり目に付かないとされる小さな枝谷に入れられる事が多かったという事らしい。
 もともとこの辺りには伊勢への道が開かれていた事で「近畿の山と谷」には政所から山ノ神峠(荒谷)に入る入口には石榑峠道と書かれた道標が立てられていたと記載があり、当時、政所からはこの経路で入山されていたようである。
 もっとも現在は、その踏み跡は完全に廃道しており、その名残がわずかに残るのみ。谷を詰めれば鈴鹿中部の山並みへと取り付く事が出来るが大半が三重県(石榑峠)からのアプローチであり、谷を詰めて風情に浸るのは、玄人のハイカーと物好きな釣り人くらいである。
 なぜこの場所が選択されたのか定かではないが、この支流の支谷では上流部にまでアマゴがいち早く移植された異例の谷である。おそらく推測であるが流程の長い深山であるという事が考えられる。標高といっても鈴鹿は千メートル級の低山の連なりであるのでアマゴの棲息にも問題は無いのであろう。
 私個人的にはアマゴが釣れる事は大変好感が持てるものの、出来れば岩魚の谷として残してほしかったと複雑な心境を持つ。岩魚のみに生息域が変化するのは源流域の少し手前に当たる二股よりも上流の源流付近であり、下流部はほぼアマゴが占有している。

 渓流のせせらぎ、風に靡く樹林の声を聞きながらジャブジャブと水の流れを切って歩く。渇水のため渓の醸し出す顔は別物のようであったが相変わらずの美渓である。
 時折、山猿の声が流れの音と調和され、山釣りの趣を漂わせてくれる。二次林の広がる山腹を見上げると、何やら黒い影が走り去った。南西の尾根では狩猟も盛んであったためか、山猿や鹿、カモシカといった山で暮らす動物達と対面する事も多い。特に鈴鹿名物とも言える鹿やカモシカと近距離で鉢合わせすれば、少しの驚きとその美しさに時は止まる。しかし、この素晴らしい動物達もふと山を離れて現実を見れば様々な問題があるようである。
 鈴鹿の山では、ニホンカモシカとニホンジカによる食害被害も少なくないという。特に野洲川上流の土山町では、滋賀県内でも昭和40年頃といち早く被害が問題化したようで、その対処に興を削かれたようであった。雨乞岳の南西、清水平では、シカが成林したスギなどの造林木の樹皮を剥ぐ被害も発生しており、これが熊の掻き傷と思われたりする事もあるが既に枯死木が出ている場所もあるらしく、滋賀県の林業統計によれば十年前にして鈴鹿山脈滋賀県側におけるカモシカとシカによる被害面積は土山町25ha、永源寺町37.7haとしている。
 また鈴鹿の山ではカモシカとシカは同所的に生息している事から被害は複合しているものと思われている。カモシカは自分の通り道に糞を積み上げ、縄張りのしるしにする事から糞が証拠とされ易いことで、カモシカによる被害が強調されているケースが目立っているようでもある。ニホンカモシカは特別天然記念物に指定されている事もあり、捕殺がほぼ無くなっている事から被害も拡大したのであろうが野生動物は我々に何とも言えぬ美を与えてくれる存在であり、生態系を崩す事なく残していくべきであろう。
 出合いから40分ほど歩けば、やがて谷は1:1の大きな分岐点に差し掛かる。何でも狩猟人の間ではかつて本流から分岐までの左岸を「カゲマタゴ」、右岸を「シンノウ」と称し、分岐より左股の上流、いわゆる本谷の左岸を「タキワラ」、右岸を「コウバチ」と呼んでいたと聞いた事がある。その名の由来は不明であるが炭焼人を含め、山稼衆の間での合言葉であったのであろう。こういう山奥の谷には地元特有の名で称されている場所が非常に多い。それが発端で後に誰しもがそう呼ぶようになって、いつのまにか谷の正式名として親しまれる。愛知川水系で言えば、人名らしき名が付いているその典型的なのが茶屋川の谷である。
 分岐を過ぎると三つの滝がオブジェのように連なっている。滝の情景は非常に美しい。微少ながらも滝の飛沫に谷の風情を感じながら急斜面を駆け上がって行く。
 滝を越えてしばらく歩き、小さな枝谷をいくつか分ける辺りからが岩魚との戯れの時である。滝へ出合うと同時に先程の先行者に追いついてしまう。自分のペースで歩けないのはジレンマが襲うが、後から入渓した者の宿命。ここはひとつゆったり釣り歩く事にしよう。幸い、気の良い方で交互に竿出して下さいとお気遣いを頂き、その後、三人で竿を出す事にする。お言葉に甘えてめぼしいポイントに糸を垂らしてみるが、あれほど居た岩魚はどこへ行ったのやら、イワナのイもアマゴのアの字もあったものではなかった。
 私だけでなくお二人方の竿にも手応えのある魚信はないようである。私は小滝の釜でやっと7寸の岩魚が上がったが実に痩せていた。
 谷の核心部を過ぎると様々な表情をした小滝が連続する。谷は比較的明るく拓け、大空が見渡せ、岩盤までも透き通る水の流れに煌々と射し込む日差しが汗ばむ体を癒してくれる。岩に腰かけ、竿を伸ばしていると次第に時間は遠のいて行く。
 やがて以前岩魚が溢れていた小滝群に到着した。高鳴る胸の鼓動を押さえ、神妙に竿を振り、丹念に釜の中を探ってみるが上がって来るのは、いずれも小さな岩魚ばかりであった。やはり釣り荒れているのだろうか。それにしてもこの谷の風情は筆舌に尽くし難いほどである。
 源流へ近づけど、永遠と小滝と落ち込みが連続している。自然林や二次林も多く自生しており、緑の彩りも十分に満喫出来る。テン場に相応しい場所は、なかなか見受けられないがツェルトでも張って、一晩、この辺で過ごしたいくらいである。清冽な岩盤まで透き通る渓の水、この美しい流れに渓魚が育まれる。人の手が加わらない自然渓流の素晴らしさとも言えよう。
 話は少し逸れるが八日市から国道421号を永源寺方面に走ると役場に差し掛かる少し手前に一泊1,500円と道路脇に建てられた看板が目に入る。山上にある旅館のようだが今時1500円という料金はどう考えも画期的な価格であり、前々から気になっていたのだが未だ詳細は存じない。どんな旅館なのだろうか。





 先行者も居る事だし、ちょっと枝谷を探ってみるか、少し先人との間隔も空くだろう。私は右岸から傾斜の付いた小滝を伴って落ちる滴りに入ってみた。通常であれば水量もそこそこで、ちらほらと岩魚の影も見られたのだが、今日はサッパリであった。
 景観だけを楽しみ、山腹の二次林帯の尾根を歩いてまた本谷へと下り立った。今日は魚影が薄いせいもあるがアマゴを一尾も見ていない、すでに谷は源流域へ入っているので完全な岩魚域であり、ここでは無理な話だが、渇水だけでここまで魚の影が消える事はない。確かに小さな岩魚はそこそこ居るのだが5寸を越えるものさえ掛からないのである。
 しばらく歩くと源流帯の大きな分岐でお二人方が岩に腰を下ろしていた。この辺から谷は多くの枝を分け、左右に屈曲する。「全然駄目ですねェ、、、」と少し疲れた表情で促してきた。どうもボーズのようである。彼らはそこで納竿するようだったので私は先へ行かせていただく事にした。右股が本谷で左股を取れば、そのままセキオノコバへ取り付く事が出来る。
 私は右股の少し先にある滝へと先を急いだ。この谷の最終の砦とも言おうか事実上、谷の持つ最後の滝である。黒い岩の表面を静かに流れ落ちる滝、釜は持たず、辺りは尖った大岩が散在している。山を行くハイカーもこの滝に手こずる事がしばしばのようである。
 左右を見渡しても、確かに簡単に巻けそうな踏み跡は一切無い。前半述べた伊勢への道が開かれていた事で乗越え道が付いており、その名残があってもよいものだが滝の付近には見当たらない。実はその乗越え道の名残は山腹の遙か上部にあるのである。
 先程の分岐から左股を取り、すぐに山腹を遙か上部まで駆け上がって行くと尾根筋の手前でかすかな踏み跡が敷かれている。ただこの滝は水量に関わらず流れの左側をシャワークライムで突破出来る。高さ5mといったところ、足場の確保に少し苦労するが慎重に登れば問題無い。
 清冽な飛沫を全身に浴びながら行く。すでに高度は千メートル近く、谷は秋の空気が纏い、肌寒ささえ感じる。滝を登り終えると同時にすぐ目の前に小滝が待ち構える。小滝の落ち込みに静かに糸を垂らすと久しぶりの手応えが奔った。バシャバシャと暴れる岩魚を手元に引き寄せると25.5センチの岩魚であった。古来の住人、愛知川色に近い。滝上には居たか。  源流の小滝(映像へ)
 ようやく良型の岩魚が上がり、顔が綻ぶ。岩に腰掛け、葉巻をふかせていると樹林の枯れ葉が水面にひらひらと舞い落ちる。

 艶やかな秋の装いも近い。とその時「ブーンッ」と大きな羽音と共に一匹の蜂が私の周りをぐるぐると周り出した。黒いものはほとんど身に付けていないのだが、ゆっくり風情に浸れないではないか。私は対岸へ移動し、また岩に腰を掛けた。すると今度は「カチッ カチッ」という威嚇音を出しながらより大きな羽音とともに何やら近づいて来る。「アカン、アカン」スズメバチや。巣でもあるのか、見張番がどうも怒っている。これはちょっと洒落にならないので静かに後ずさりしながらまた対岸へ移動した。私はスズメバチに刺された事はないが何でもスズメバチは人を刺しても毒針が抜けず、毒がある限り何度でも刺すことが出来るという。また一匹に刺されると,刺したハチが興奮物質を空中に撒き散らすらしく、これが複数に襲われる原因になると聞いたがこんなところで刺されたらえらい事である。応急処置でポイズンリムーバが毒の吸出しに利くと聞いた事があるが昨今は蛇に咬まれた際も口で毒を吸い出すのは、推奨出来ないと言われているので何とも半信半疑である。
 小滝は消え失せ、ここからは小さな落ち込みが断続的に続き、後は極平凡な源流帯の流れになる。水量が乏しいせいで落ち込みに溜まる水も貧弱である。しかし、こういう場所に良い岩魚が潜んでいる。 先程の岩魚を皮切りに25が二本、26センチと続々と岩魚達が水面を斬って飛び出してきた。もう少し大きな溜まりがあれば成長も早いであろうに。良型の岩魚に混じって小さな岩魚も上がって来るのだがその岩魚は愛知川色に近いものではなかった。こんな源流にまで善意放流するのは御苦労な事である。

 しかしながらある地点を境に岩魚の魚信は完全に途絶え、目印はピクリともしなくなり、水が涸れる寸前の場所まで歩いてみたがやはり岩魚は掛からなかった。ただ最近のものと思われる人の足跡が少し見られた。釣り人なのか登山者なのか、釣り人であれば、この魚影の無さも納得出来るのだが。しかし左右の山腹に目を向けるとその情景は滝下とは雲泥の差であった。
 鈴鹿名物、笹藪までもが登場し、その奥手には周囲一面に広がる素晴らしい二次林の足もとを台地一杯に群がる草原がより引き立たせている。。セキオノコバの序章である。
 セキオノコバというのは自然公園のような場所で鉱夫や炭焼人等が休息を取った場所と言われている。森のざわめきと谷の瀬音が安らぎを与えてくれる。私はたまらなくなり、山腹を這い上がって樹林帯の中へ大の字に寝そべった。「夢心地、、、」
第二十二話 完
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