第19話 夢 路
時間が止まる瞬間、それは美の世界が創り出す光 |
今日も私は鈴鹿を歩いている。 |
|||||
渓流の中に無の心を覚え、渓魚と戯れているのだが、鈴鹿は私に親しみを与えてくれるのである。同じ場所を何度歩いてもそこには飽きを感じない。勿論、他府県で歩いてみたい渓はいくつもあるが、今のところその思いを鈴鹿が上回っている状態というところか。 鈴鹿と山釣り、これは私にとって終わらない旅なのかもしれない。釣りには様々なスタイルがあり、その楽しみ方も千差万別であるが私の釣りは、基本的に単独行がほとんどである。スケールの大きい源流域やゴルジュの連なる険谷を詰める場合や、たまに気の合う者と並んで歩くのは悪くないが、常に大勢でワイワイするものではない。決して推奨出来ないが、この一人で歩くという事にも大きな意味合いがあるのである。 人に私の山釣りの話をすると、大方の者が好意を抱くが、突き詰めて話をすると行動に出る者は非常に少ない。一度、同行させてほしいとしばしば言われる事もあるが最近は、よほどでない限り断っている。「携帯は入るんですか?」「魚、リリースするんですか?」「まだ歩くんですか?」こんな事を毎回毎回、説明するのもうんざりしてしまうのである。 数年前の話しになるがある会社のオーナーである知人を神崎川の支谷に連れて出向いた時、疲れ果てた知人はヘリコプターで迎えを呼ぼうと冗談半分であるが真剣な眼差しで私に促してきた。渓流釣りは趣味と言おうか遊びであるのだが私にとっての観点は全く違うところにある。その見極めを私が誤ったとその時は思った。 近年はアウトドアブームにより、自然と親しむとされる人口が急増している。施設も充実しているため都会での生活をリフレッシュしようと開放感や癒される空間を求めて山や川へと訪れるのである。旅行会社では農泊などと言って現役の農家のお宅に宿泊し、その生活を体験出来るようなパックまで存在している。しかし、訪れる人々のマナーの低下により、山や川の環境は確実に下降を続けている。川では平然と洗剤を使用し、河原まで車を乗り付け、車と車の感覚はわずか数メートルといった光景も珍しくない。シーズンが過ぎ去った後には見るも無惨なほどの大量のゴミの残骸が残るのみである。何かを忘れている気がしてならない。 |
|||||
しかしその夏も終盤、渓流には心地良い秋を感じさせる風が吹いていた。事情で今日はレンタカーを使い、巡行して来たのだが八日市インターを下りてコンビニの駐車場で不意にもトランクにキーをインロックしてしまい、JAFを呼んだまではいいが、このレンタカーのセルシオにはセキュリティシステムが掛かっており、ドアは開かない上に静まりかえる住宅地に大きなホーンの音が幾度と鳴り響き、早朝5時からてんやわんやであった。 |
|||||
最下部に構える堰堤は場所柄、緑や紅葉といった景観との調和を考慮して、前面に自然石のブロックを使用し、川底はできる限り低い落差工を設けている。これは滋賀県下では初の試みであるらしい。人の手が入っていない自然渓流を歩く事は非常に趣も多いが堰堤下の落ち込みというのは滝と同様に釜のようなものができるので魚の絶好の住処になるためかよく育った渓魚が居着いている場合も多く、釣りとしてみれば魅力が全くないワケでもない。 と言うより建設の際に流れ出た土砂で川底が埋まり、渓魚が棲める場所が堰堤下しかないとも思える。私も過去に愛知川水系の支谷で尺上の岩魚やアマゴを何度か釣り上げているがその半数は堰堤下である。 現在、漁協による放流は皆無であり、地元の人も堰堤が出来過ぎて魚は居ないと谷の評判はよくない。かなり以前は漁協も多少の放流を行っていたようだがおそらく堰堤建設と同時に止めたのではないだろうか。5〜6年前に一度、入渓したがその時は小ぶりのアマゴとイワナが釣れた記憶しかない。 どちらにしてもかなり魚影は薄いと思える場所であるが子孫が自然繁殖した岩魚や雨女魚がひっそりと暮らしていると思える。しかし、逆に言えば、これだけ釣り人から除外視される場所ほど珠玉の渓魚に巡り逢う微かな期待も出るというもの。眠っている大物岩魚?雨女魚?を夢見て私は谷を行くのであった。 |
|||||
林道の入口には落石、土砂により通行止めと町の看板が建てられているくらいなので、相当荒れているかと思いきや落石、土砂などは、ほとんど見当たらず道はところどころ悪いが言うほどでもない。林道の脇へ車を切り返し、谷の中流付近から下りてみる事にした。 小雨の降る中、ボサを掻き分け踏み跡へと入る。「えらく静かやな、、、」谷へと下り立った私は茫然としてしまった。流れが無いのである。道理で静かなはずだ。 踏み跡を歩いている途中まで渓のせせらぎが聞こえていたのだが、いつの間にか消え去ったのでおかしいとは思っていたが、谷は完全に伏流しており、流れを物語る岩だけが剥き出しになっていた。これは先が思いやられる。 行きに見た愛知川本流も渇水気味ではあったが、これほど谷の渓相が変わっているとは思わなかったので少し驚いた。とりあえず少し下ってみるかと涸谷を歩き始めた。大きな堰堤が見えると右岸の枝谷から滴り落ちる水流と同時に地面から湧き出るように少量の水が湧き出ており、流れが復活していた。左の山腹を大きく巻いて下り、堰堤下に糸を垂らしてみたがアブラハヤが掛かるのみであった。 そのまま下流へ向かい歩いて行くが大きな倒木のため、行く手を遮られ通行は出来ない。ふと下を見ると浅く緩やかな瀬に5寸ばかりの岩魚がゆっくりと泳いでいた。行き場所が無いと言わんばかりの何とも寂しい姿であった。 下り立った場所まで戻り、今度は上流へと歩いて行く。下流域と同様しばらく伏流していたが少し進むと少量の水が流れ出てきている。それに以外に水深のある廊下があったりと良い渓相だが残念ながら渓魚は居ない。「う〜ん、今日の釣りはちょっと厳しそうだ」 とりあえず堰堤を越そうと右山腹をトラバースし始めるが踏み跡は無く、雨で地盤が弛んでいるせいか非常に滑りやすく、とにかく足場が悪い。二次林の樹林帯の間をかき分け、少しの藪漕ぎを強いられる。 |
|||||
そろそろマムシも活発になる頃だろう。八月の中旬から九月にかけてはすでに産卵シーズンに入るせいか、彼らも神経を尖らせているという。蛇捕りを生業にしている方であればそれはお金にも見えようが、山に入る者としてマムシやヤマカガシといった猛毒を持つ蛇は驚異である。 ハブのように木にぶら下がり襲ってくるような危険性は極めて少なく、その事故の大半が山草を摘もうと手を差し出した時や誤って踏みつけた時に起こっている。結局、周囲に注意を払って行動していれば、さほど危険もないと思える。やはり枯れ木を片手に前方を払いながら進むくらいの注意があってもよいだろう。岩や山腹を這う時も石か何かを上に投げて自分の存在を明らかにして進む方がよい。 私も以前、急なガレ場を登っている時、岩に手を掛け、登ろうと岩の上に顔を出すと目の前にマムシが蜷局を巻いて昼寝しており、私の顔をジロッと見ていた事があり、突然の事に驚いてそのまま滑り落ちそうになった事がある。また草むらにポッカリと穴が開いている事がしばしばあるが、それは蛇の巣である事が多く、余計な事はしないのが賢明である。 鈴鹿の山では多くの野生動物に遭う事ができるがマムシやヤマカガシといった毒蛇やスズメバチ等、危険を伴う生物を除けばさほど神経質になる事はなく、逆にその存在を楽しむ事が出来る。猿や猪、鹿、カモシカといった動物の場合、人慣れしていないのでよほどこちらから攻撃しない限り、向こうから危害を加えてくる事はない。大体が見ている間にどこか藪の中へと消えて行ってしまう。 |
|||||
大量の汗を滴りながら山腹を歩いていると、私の真横で「ホゥーー」と大きな鼻息らしき音がして一瞬「ドキッ」とした。振り返ると山猿が私をじっと見つめていた。「びっくりするがな、、、」「あかんあかん、猿と睨めっこしたら襲ってこられそうや」少し離れてから写真を撮ってやろうと、カメラをゴソゴソしているとスルスルと木に登って、そのまま対岸へ、まるでムササビのようにジャンプしながら乗り移り、樹林の中へ消えて行った。樹林の中を彷徨っていると、ここにも炭焼き窯の跡が点在していた。こんなところにあるなんて、よく見ればかつての踏み跡らしきものがところどころに見受けられた。 ようやく谷へ下りやすい場所が見られたので、ゆっくりと両手で体を支えながら落差のある山腹を下っていた時であった、右足を岩の上に乗せ、左足を上げ、重心が右足に集中した瞬間、動くはずもない石が「ゴロッ...」「えっ?」そのまま山腹をすさまじい勢いで滑り落ちた。これでもかというほど転がり、私の目にはスローモーションのように見えたが、気が付けば谷間の左岸へうつ伏せで倒れていた。 |
|||||
「めちゃくちゃ痛い、、、」突然の出来事に私はそのまましばらく動けなかった。右手の中指に激痛が走っている。「折れたか?」「
とりあえず足は動くな、手も動く、体は、、、大丈夫だ」雨で相当地盤が弛んでいたのだろう。私はどちらかと言うと慎重な方だと確信しているのだが、それが反目に出たようである。岩は安全か事前に確認したにも関わらず、ひょんなところでこういうケースが多いので皆さんも充分に注意されたい。幸い指のケガも大した事はなく、大事に至らなかったので良かったが全くお恥ずかしい。これまでも遡行中に足を滑らす事は何度もあるが、これほど大袈裟に滑り落ちたのは始めてだった。前回の竿の件といい最近どうもおかしい。歳なのか、いやいやそんな事はないと自慰する。 朝の件に加えて滑り落ちて一気に釣り欲は喪失してしまい、小雨も降っているし、今日はダメだと、すでに私の意志は帰路へ向かっていた。大岩の上でしばしの休息を取っていると、目の前に堰堤が見える。泥まみれになった上着とウェーダーを洗おうと腰下まで流れに浸かると、ジンワリと水がウェーダーの内部にシミ込んできた。穴まで開いたか。折角来たんやし、とりあえずあそこの下を少し探って帰る事にするか、そう決心した私は堰堤の下へと近づいて行った。 |
|||||
この辺りも相変わらず水の流れは貧弱で、堰堤に注ぐ水勢も左端からわずかに滴り落ちている程度である。溜まりはそこそこの水深があったが流れはほとんど無いプールの状態であった。 目の前に大きな木の切り株が立っており、私はそこから溜まりをそっと覗き込んだ。すると、たくさん魚が泳いでいるではないか。小さなアブラハヤも多いがその中にアマゴの姿も見られ、結構大きなものもいるではないか。 私は依然、切り株の背後に身を寄せて静かに底岩の辺りに餌を送ってみた。すぐさま「ググッ」と魚信を感じ、引き上げると20センチほどのきれいなアマゴが釣れ上がった。 「おーおー、おるんやな」その後はアブラハヤが何度が遊んでくれたが、アマゴがなかなか掛からない。じっくり粘ってやろう、そう思い立ち、糸を垂らした瞬間だった。目で追っていた餌が一瞬にして消え去ったと同時に水中の渓魚が私の道糸を揺らした。 すかさずアワセる。「ん? えらく重いな、、、」 水の中で暴れ回り、水面までバシャバシャと喘ぎながら魚体をちらつかせているが、引き上げどなかなか手元に寄って来ない。「もしやして、」そう紛れもなく大物である。 流れが薄いので水勢の抵抗は感じなく、まだ他にも居そうな気配もあるので、そのまま一気に抜き上げた。大きな波紋を水面に広げて宙に舞って来たのはアマゴであった。 |
|||||
「●△×#※!」デ、デカイ...体高は非常に逞しく、顔つきは野性味溢れる精鋭なもの。朱紅点はほぼ消え失せ、魚体はうっすらと赤くなり、サケ特有のアゴが飛び出し、若干の鼻曲がりが見られる。私はポッケからスケールを取り出し、タモ網の中で暴れるアマゴの魚体に当てた。ちょうど30センチである。 私は少し実感が湧かず何度も何度もその寸法を測り直した。 まぎれもない雄の泣き尺アマゴであった。思わぬ収穫に指の痛みはどこへ行ったのやら私は夢中で写真を撮り続けた。「まさかこんな場所に居るとは、、、」 夢は見ていたものの「この谷では、、」という先入観が働いていたので感動という実感に到達するまでに呆然とする |
|||||
時間を非常に多く要した。 | 「尺雨女魚の息づかい(映像)へ」 | ||||
感動に到達した私の顔は、、、ご想像通り何をするのもニヤニヤである。写真を撮るのも、ビールを飲むのも、タバコを吸うのも、仕掛けを作るのもとにかくニヤけるのであった。こんな光景を人に見られたらさぞかし変人扱いされる事であろう。 鈴鹿でアマゴの尺と巡り合うのは非常に久しぶりであったので、それも仕方が無い。鈴鹿では滅多にお目に掛かれない。その後7寸の岩魚が上がり、どうせなら核心部の区間だけでも堪能しようと、いつの間にか私の釣欲は絶頂へ達していた。無性の山釣りキチは、こんなものである。 |
|||||
堰堤を越えると、しばらくは自然渓流が楽しめる。自然渓流と言っても瀞が若干あり、大半はチャラ瀬であるが短い区間に小滝が詰まっている。この谷の核心部とも言える場所であるが、ここに堰堤を建設しなかった事が唯一の救いかもしれない。この区間だけは、まるで神崎川の支谷を思わせる風化した花崗岩が押し寄せ、明るい日が射し込み、素晴らしい情景を感じさせる谷間である。 まず斜めに落ちる2mほどの小滝が見られ、滝下は瀞になっているが右岸の山腹を大量に伐採しており、その残骸と思われる無数の倒木が左岸に散在しており、美観はもとより竿は振れたものではない。 瀞には5寸ほどのアマゴがゆったりと泳いでいた。瀞は水深があるので川通しするなら泳ぐ覚悟が必要である。右岸の伐採地へ上がり、大きく巻いて滝上に下りると岩盤の表面を洗うように流れるナメが見える。水は岩盤を一点の曇りも見せないほどの清冽さである。 そして少し行くと4mほどの美しい滝が待ち構える。なかなか良い滝壺であり、糸を垂らすと25センチ、22センチの白斑点を多く模様する岩魚が飛び出して来た。しかしながら水面を切って空に舞う渓魚の姿はいつ見ても美しい。右岸をヘツって小滝を巻けば大きな瀞の出迎えを受け、その奥に3mほどの小滝が構える。 エメラルドグリーンの瀞は両岸に大きな面積を持ち、非常に水深もあると思える。足場が確保しにくいせいもあり、じっくり攻めなかったが、ここにも大物が棲んでいそうな気配が漂う場所であった。滝の区間はこれだけであるが、谷のギャップの激しさに満悦度も上昇するのではないだろうか。ここからはナメがいくつか続き、しばらくするとまた堰堤の登場となる。 |
|||||
「滝壺の岩魚(映像)へ」 | |||||
歩きながら思っていたが今日の出来事に少しばかりの人の生きる道を感じてならない。逆風が押し寄せ、意欲が喪失しかけた時にそのまま帰路へ着いていれば、素晴らしいアマゴとの出逢いはなかった。一歩前へ出たからこそ、得た快感である。仕事を含め、人が生きて行く中で同じ事が言えるのではないだろうか。例えに出来る事かどうかそれは各々の考え方ひとつであるが、私は素直にそう感じた。前進する心、これが今の私に欠けている事なのかもしれない。朝よりも雨が強くなってきたので火は起こす事が出来ず、その場でゆっくりと渓を堪能する事は出来ないので今晩、大きなアマゴの塩焼きを酒のアテにしながら今日の情景を思い返し、余韻に浸るとしよう。私の頭のスクリーンには早くもアマゴの姿が幕を開けていたが右手の中指は見る見るうちに膨れ上がっていた。 | |||||
第十九話 完 | |||||
++ 鈴鹿と山釣りWeb Top ++ | |||||
++ Next ++ | |||||