第11話 旅 人


山に触れ、渓に触れ、そして歴史の道を行く




 心地良い春の風から、湿った空気が装う季節へと変わり、夏模様もすぐそこ、といった感じである。渓歩き、山釣りにとっては、これからの季節、最も厳しいものと言えるだろう。藪は絶好調に生い茂り、蛇やヒルの活動も活発になり、とにかく暑い。少し歩けば額から大量の汗が滴り落ちる。それでも微かな小鳥のさえずりを聞きながら暗い谷筋を歩く時間やちょっとした水飛沫を浴びて小滝を登る、そのわずかな空間に珠玉の喜びを感じて、谷の奥へとただひたすら足を向けるのである。
 4月から生活の一部のように毎週通い詰めた渓も先週は商用の芝刈りのため、休みとなったが盛期になっては少し停滞してしまう。
 今シーズンの山釣りの予定も丁度、半分を終え、夏真っ盛りとなる前にこの谷を歩いておこう、そう思い、私はいつもと違う風景を前に車を走らせたのだった。

 和南の集落を過ぎて舗装された道を行くと甲津畑の集落が見えてきた。千種街道である。山里の佇まいの合間を通り抜けて行く。歴史深い集落ではあるが、現在は近代的な風潮を装いに家屋を見る限りでは、その面影は感じられない。
 集落を抜けると風景は山間の景色に変わり、管理釣り場の看板が目に入る。私はこの管理釣り場で遊んだ事はないが、杠葉尾の管理釣り場と同様、自然渓流を利用した釣り場なため、景色はまずまず良い。また週末の前日には尺以上の大物を数匹、ひそかに放流してくれているようで運がよければ、その大物と出会える事もあるという。
 ここから少し車を走らせると、渓を横切る大きな橋があり、そこから先は未舗装の悪路になる。但し、この林道もすぐ先で行き止まってしまう。

 岩ヶ谷林道に入ると思いの外、道が荒れている事に驚いた。これだったら林道の手前に駐車すべきだったのに、、、少し先の広場はいつも釣り人や雨乞岳の登山者の車で賑わっている。しかし現在は治山工事のため、入り込む人は少ないようである。
 この先も軽の四駆であれば通行は可能であるが、道が崩れている箇所もあり、片側は数十メートルの絶壁で歩く方が無難である。この場所から雨乞岳までは非常に長いアプローチになる。その分、触れる事の出来るものが多い。
 雨乞岳は標高1238メートル、御池岳に次ぐ鈴鹿山脈第二の高峰で知られている。東西南北すべてに水量豊富な渓を流れ持ち、中心には様々な歴史的足跡の残る千種街道(千草越)が通っている。古来より千種街道は八風街道と並んで伊勢と近江、京を結ぶ. 重要な交通路として多くの武士や町民行商人の往来で賑わった道である。したがってこの山は登山の際、数多くのルートが取れ、色んな意味で非常に趣がある。アプローチが長くなるため、出来れば山泊する方が深山の持ち味を充分に楽しむ事ができるであろう。

 鈴鹿スカイラインを利用して武平峠まで車で行き、クラ谷を詰めて七人山のコルを通る往路ルートなどもお勧めのコースであるが、私の知る登山者は鈴鹿の山は時間を掛けてゆっくりと歩く方が好ましいという人が多い。イブネから佐目峠、杉峠を越えるルートは素晴らしい山旅の雰囲気を存分に楽しめるはず。
 しかし今の季節、この辺りはヒルの密集する地帯であるため一般のハイカーは敬遠がちになるだろう。私も山釣り目的で何度か歩いたが随分と歓迎された記憶がある。釣り人のよく入り込む橋までは大した事はないが、それより上流域の特定の場所はヒルの密集地帯である。一般の方から見れば私も歴とした物好きに見えるのだろう。

 神崎川源流へも鈴鹿スカイラインや朝明渓谷から容易にトラバースする事もでき、いつもと違う景色が見られて新鮮な気分に浸れるのだが私はどうも気が乗らなくあまり利用しない。何年に一度か「今日は大瀞」といった特別な衝動に駆られない限りはいつも下流側から入渓する。神崎川も関連する色んな話があるのだが今日は神崎川遡行ではないので、また次の機会で触れる事にして、私の歩く谷筋に関わる話題に触れていく事にしよう。
 今、私の歩いている千種街道は甲津畑から杉峠、根ノ平峠を越えて千草の地へ至る山道である。ここは鈴鹿でも一際、歴史深い場所でもあり、様々な足跡に触れる事が出来る。この街道で一番最初に目にする村が甲津畑の村であり、これほど長い峠にも村らしいものはここだけである。
 その昔、峠の道中には茶屋のような宿もあったらしいが、今は井戸の跡など面影が少しある程度のもの。もっとも千種街道という名をこの世に広めたのは戦国時代に織田信長が通行した事によるらしい。極秘に現在の谷に沿った岩ヶ谷林道を通行中、杉谷善住坊にて山中に隠れ潜んでいた山賊に鉄砲で狙撃されたが大岩に身を隠し、難を逃れたという言い伝えがその発端のようである。また甲津畑には織田信長が峠越えの際に宿を取ったとされる陣屋があり、その庭には馬をつないだといわれる見事な「駒つなぎ松」と呼ばれる立派な松の木がある。
 歩き出す身支度を整え、首筋にタイガーバーム、全身にエアサロンパスを吹きかけていると、もうヒルが足にへばり付いていた。おやおや、早いお出ましで。
 塩を取り出し、ひと振りすると、苦しそうにもがきながら地面にポタッと落ちた。少し雲行きが怪しく、また雨の予感がする。まぁええ、まぁええ、雨くらい降れーと、朝の早くから妙にテンションの高い私であった。

 このところどうも雨に降られるケースが多いように思う。これはヒル地獄を覚悟しなければならない。しかしそれも予想して今日は特大サイズの塩を用意してきたのである。
 5時を少し回ったところで峠は薄暗く陰湿な空気が漂っていた。車止めから林道を10〜15分ほど歩くと、道幅の広がったところに一本の看板が見える。「善住坊のかくれ岩」先程触れた、信長が一命を取り留めた場所である。
 踏み跡伝いに下りて行くと右手に大きな岩がどっしりと構えており、まぁ、見たところは何の変哲もない岩である。本当にこの岩に隠れて狙撃を交わしたのかと思ってしまう。
 この辺りの本流は水量も豊富で、なかなかきれいであり、のんびり歩くには持ってこいの場所である。ある意味、この辺りの本流が一番魚影は濃いかもしれない。

 日が差し込めば時間を忘れるような空間が広がるのであるが、この天候では仕方がない。足もとに気遣いながら右へ左へと曲がりくねる林道を歩いて行く。錆び付いた廃車の手前で左の台地に転がる軽自動車が目に入る。まだ新しいようであった。今のところ心を和ませてくれるのは左に聞こえる谷の瀬音だけである。
 いつの間にか雨が降ってきた。渓の流れは見えぬが、決して途絶えぬその水音が林道を行く人に谷の趣を語りかけてくれる。石組み堰堤を過ぎると左右の道沿いには、ところどころ石積みが見られ、歴史を物語っている。

 そして植林地帯を抜ければ、やがて桜地蔵尊が見える。ここはすぐ横に大きな桜があったことから、そう呼ばれているらしい。明治後期に栄えた向山鉱山、御池鉱山などの鉱山経営者からお堂が奉納されたようである。賽銭を入れ、参拝し安全釣行をお祈りした。この先の橋で林道は終点となり、ここからが本格的な峠道となる。

 先程までの歩きやすい地面とは変わり、いかにも山道らしい。谷筋は右手に変わり、高度が上がって渓のせせらぎは薄くなってゆく。杉峠ノ頭からカクレグラに至るタイジョウ付近から流れ込む小さな谷に架かる丸太を幾度か渡り、しばらく行くと杉峠80分という標識とともに、道が広がった場所に出る。この辺りが塩津古屋敷跡である。

 屋敷跡と言う通り、それらしき石組みがあちこちに見られる。右手は大峠を越えるルートの分岐、谷に下りて少し行けば支谷の分岐。イハイガ岳へ至る谷である。
 気付けば雨はいつの間にやら止んでいた。炭焼き窯跡の横でリュックからビールを取り出し、中腰になりながら一服していると、ひんやりした風が心地良い。自分の存在をアピールするかのように取り囲む樹林がざわざわとさわぎたて、落ち葉が揺れる。
 しかし私の前の落ち葉がどうも妙な動き方をしており小刻みに揺れている上、微妙にこっちに近づいてきているような気がしてならない。右側では小さな小枝が上下にわっさ、わっさと揺れている。なるほど検討が付いた。そんな姑息な事をするのは奴しかいない。鈴鹿名物、ヒルの仕業である。
 経験のない人であれば驚きもするであろうが、私にはそんな手は通用しない。5〜6匹の群れがやって来ていた。

 「ええーい、祓うのも面倒や」
ここぞとばかりに塩を取り出し半径30cm以内近寄るなとばかりに私の周囲をぐるりと周り、なみなみと盛った。お陰で魚が釣れても塩焼き出来ないではないか。どうしてくれよう、、、
 しかしこれだけ多くのヒルは普段、一旦どうやって自分たちの栄養を補給しているのだろう。以前そんな事がふと頭を過ぎり、色々調べてみるとやはり鹿、猪、猿といった野生動物に付いている事が多いらしいが、それだけでは数が合わないワケで、土の中の有機成分を吸収しているという。愛知川支流群の中では茶屋川が一番多いが神崎川も巻き道や登山道、一部の支谷はかなり多いように思うが御池川では、滅多に付かれる事はない。しかし歩いている最中、思ったよりも付いてこなかったので幸いだった。途中見た子鹿の死骸にも奴らは付いているのだろうか。
 ようやく渓を横切る塩津の堰に出くわし、久しぶりに見る渓の流れにボルテージが上昇する。この辺りの下が本流の核心部とも言える部分で瀞、大淵、滝が連続する非常に男性的なスタイルを持っている。川通しはまず不可能であり、危険度も高い。ゆえに大物でも居着いていそうなのだが今は何とも言えない。しかも掛かったところでほとんど足場が悪い場所になるため、取り込めないかもしれない。手前の一部分にそろりそろりと何とか下りて竿を出してみたがピクリともしなかった。

 丸太橋を渡ると右に杉峠の道標が立っており、ユラバシへの取り付きである。ユラバシと呼ばれるこの付近はかつて峠道が付いており、かなり栄えていたようで、畑まであったようであるが現在では踏み跡さえロクに残っていない。支谷の分岐には豪快な滝が構えている。

 峠は徐々に高度を上げてゆく。溶けきったミネラルウォーターを一気に飲み干す。これほど水が旨いと感じる時は今以上に無い。やがて「蓮如上人の御旧跡」に来た。石碑と古井戸跡があり、石碑は昭和10年のものらしい。蓮如上人というのは浄土真宗中興の祖と言われ伊勢、近江の一向一揆の指導者とも言われているようである。塩津という名の由来は伊勢、近江の両国からそれぞれやって来て、塩をやり取りする場所であった事から来ているという。またこの付近には茶店があり、旅人の身体を癒したとも言われている。
 しかし考えれば考えるほど魅力のある峠である。様々な人々が炭焼きへと揺れる木橋を渡り、また時に腰を下ろし、くつろいだ時間を想像させる。時は流れているが、ここにある空間にだけは当時の風が取り巻き、素晴らしいモノトーンの世界が広がる。
 すぐ先にある大シデの巨木もそのひとつであろう。どっしりと構え、伸び伸びと両手を力一杯に広げたその風貌は非常に雄々しく良い眺めである。

 ここより道脇には石段、炭焼窯跡が非常に多く見受けられる。巨大な並木を横目に歩く私は、気が付けば杉峠手前まで来てしまっていた。千種街道の最難所、杉峠はその昔、織田信長を始めとする将兵、商人などが利用したと言われているが本当に利用したのかと思うような標高も千メートルを超える厳しい峠である。立ち枯れた大杉の木が無表情に一本立っているのが印象的。
 道幅は、途中から人がやっと通れる程度になり傾斜はきつく、馬乗りは無理と思わせるようなものであり、徒歩での通行を想像させる場所である。しかし杉峠の付近はかつて向山鉱山、御池鉱山などの鉱山で栄えていた。御池鉱山は杉峠の東側に位置するため、今回は見ることは出来なかったが向山鉱山跡に立ち寄ると、飯場跡や住まいの跡らしきものが点在しており、その残骸が静けさを募らせていた。昭和20年に廃鉱と聞いたので60年余りが経過している事になる。この両鉱山は最盛期には七百人が労働していたと言われており相当の規模のものである。

 また雨乞岳はその名の如く雨乞信仰、儀式の多い山であった事も知られている。鈴鹿にはしばしば龍(竜)の名が付いた谷や山が見られるが龍もまた雨乞に関係する伝説上の生き物であり、その行事を物語っている。愛知川域の農民が山頂へ雨乞登拝したという事実や伝説が神崎郡の大昔を記した書物に見られる。山頂には決して水の涸れることのない大峠ノ沢という池が笹に囲まれ存在しているが、これも雨乞いに関連しているのであろう。しかしなぜ大峠ノ池でないのだろう、渓でも関西は沢という表現は滅多に使わずもっぽら「谷」である。沢と言えば東北の渓を思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。御池岳の山頂にも池は見られるが沢ではなく池と呼ばれている。

 本流の支谷の中で、私的に一番趣のあるのは何の変哲もない小さな谷である。かなり行き過ぎてしまっているので私はその谷筋へ下り立とうと尾根をトラバースしたのだが、歩いたことも無い尾根であったためか違う場所に迷い込んでしまい、藪の中を放浪する羽目になってしまう。峠道へ戻ることを余儀なくされ、本谷へ下りようと下っていると前方から熊除けであろう鈴の音とともに老杣が歩いてきた。リュックの横には竿を忍ばせているではないか。釣り人のようである。

 「どこまでですか?」
と訪ねると雨乞のたれ口までという事だった。
 元来、熊の話を聞かない鈴鹿山脈であるが14〜15年前に多賀の犬上ダム湖上流の桂谷付近で遭遇した人がいるらしく警報が出たらしい。また奥の深さを象徴するがのように、これも随分と以前だがイブネの源流帯付近で黒い影を見たという情報を元に熊への警報が出た事があり、峠には「佐目峠付近、熊に注意」と看板が立てられている。その後は烏帽子岳山麓、霊仙岳、イブネで同じように黒い影を見たという情報で警報が出ている。実際、杉の木などの大木に爪痕などの縦に掻きむしった傷跡を見たというハイカーや釣り人は大勢いるが実際に熊と遭遇した、見たという話は聞いた事はなく、いずれも確実な決め手にはなっていない。ハイカーや山仕事の間では鹿の角研ぎだということで一件落着しているようである。

 いつの間にか少しずつ日も差し込んでおり、迷っていた時間もあるのだが、ゆったりと気分に浸って歩いていたせいか、割に時間が経っていた。そろそろ本格的に岩魚と戯れるとするか、少し本谷を探ってみよう。
 この辺りの谷の景色は実に美しい。白っぽい大岩が連なり、水は岩盤まで透き通る。岩がかなめる落ち込みに静かに竿を振ってみるが残念ながらアタリは全く無かった。時折、走り去る魚影を見る事は出来るものの、全体的な数の少なさとスレで、なかなか釣れないのが現状だろう。

 しばらく歩くと谷の口に出合う。ここからが岩魚との時間である。思わず顔が綻んでしまう。というのもこの谷は9寸など型の良い岩魚が上がるのである。 いきなり高度が上がるため、出合いから小滝が続き、すぐ右手にはナメ状の小滝がある。
 水量は少な目であったが落ち込みが創り出す瀞や淵が岩魚の魚影を感じさせるのだ。竿を出すとすぐさまググッという感触があり、軽くアワセると5寸の岩魚が掛かった。やはり本谷とは違ってまずまず魚影は濃いようである。
 岩のえぐれに隠れ潜んでいるのだろう、餌をその手前に入念に送り込むと、次々と岩魚が掛かる。しばらく行くと大きく広がった淵が見えた。ここはいつも8寸くらいの岩魚が上がる場所であり、私は久々に見る光景に唾を飲んだ。身体を屈めて静かに忍び寄り、白泡の中へ餌を送る。
 「コンコンッ、おっ、食ってるな、、、」
 少し遅れてアワセると6寸強の岩魚であった。さすがに岩魚と戯れだし、渓流美を感じながら歩いているせいか、時の経つのもすっかり忘れ、私は渓に同化していた。
 谷間に居ると外界での暑さは感じない。渓を覆う樹林の間から時折、刺すように光がもれてくる。これが谷のコントラストを一層引き立たせてくれて変化に富んだ谷を象徴する強弱を付けた渓のせせらぎが、汗ばむ体に心地よい涼感を与えてくれる。そして木漏れ日や小鳥のさえずりに加えて時折、樹林の葉に残っている雨滴が私の肩を叩き出す。何とも言えない演出の空間に心は掻き立てられるばかり。

 目の前には二段十メートルの滝が心地良い水音とともに注いでいる。滝下は渇水のため魚影は見当たらなかったのでそのまま高巻いて上に出ると左に炭焼き窯跡が続く。かつて甲津畑の山稼衆にとってメインとも言える場所である。
 谷の両脇にそびえ立つ巨木の幹を横目に先へと行く。谷はすでに源流状になり、短いナメが続き出す。まるで人の手によって創られたような岩場を透明感のある清流が流れ込み、そのほとばしる流勢に手を掛けながら小さな落ち込みを丹念に探ってゆくのである。魚影はぐっとおとなしくなり、源流最奥の二股が見えた。
 表面に緑の苔を覆った大岩がゴロゴロと出始め、ごく小さな落ち込みがある程度の渓相。タイジョウに突き上げる谷も、あと残り少しというところでこの場を後にする。
 谷を本谷まで下り、峠道に落ち着くと何とも言えぬ清々しい風が私を纏い、思わず「うーん、ほんまに気持ちええな〜」と声が出てしまうほどであった。核心部から切れ込む支谷の手前を水門が水をかき分け、勢いよく滝へと変化している。期待した尺物は、また次の機会になりそうだが時間もまだあることだし、もうひとつ谷を詰めて小岩魚と戯れるとするか。心地良い風を浴びたまま私はその渓の流れをじっと見つめ、また山腹をトラバースし始めるのであった。
第十一話 完
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