第21話  流紋岩魚「下」


鈴鹿山脈の持つ不思議な力、それは精霊を映し出すこと




「岩魚」

 それは実に不思議な魚である。
 氷河期時代に冷水に陸封され、もともとは川でも雪深い最源流にのみ棲息すると言われた渓魚であり、古来から幻の渓魚として珍重されていた訳だが、今日では人工養殖により様々な河川に放流され、さぼど標高が高い場所でなくとも簡単にお目に掛かる事が出来る。

 山釣りと言えば対象になるのは岩魚であり、深山幽谷で出逢う野性味溢れる精鋭な顔つきの岩魚は自然の持つ素晴らしい美を感じさせてくれる。鈴鹿、ここも岩魚と非常に縁深い場所である。また様々な岩魚の種が棲息している。
 流紋岩魚もそのひとつ。滋賀県琵琶湖環境部自然保護課では流紋岩魚を「保全すべき群集・群落、個体群」としている。なぜムハンイワナは、取り上げられていないのか分からないが流紋岩魚に比べて棲息事例が希薄な事も関係しているかもしれない。すでにご存じの方もいれば全く事情を存じぬ方も居るであろうが流紋岩魚は無斑岩魚を含め、非常に希少な魚である。過去にこのような特殊斑紋を詮索した人々は何とか保護する手段を考慮していたようだが実現はしていない。しかしこういった山奥にしか棲息しないような魚はなかなか保護手段が見当たらない。へたに天然記念物や保護唱えるとかえって逆効果になる事も考え得る。心なき者は当然として良識のある釣り人であっても珍種のあまりに興味心を煽ってしまう事である。流紋岩魚の生態を調査していた武田恵三氏は当時の状況をこう語ってくれた。

 「調査を続けているうちに特殊斑紋岩魚はおろか通常の岩魚までもが年々みるみるうちに減少をしていった。釣り人の増加に拍車を掛けるよう、 渓魚の保護に関して無関心な登山者が晩飯のおかずにしている事には困り果てた」と。確かに事情を知らぬ登山者にすれば模様が違えど気が付かない者も多く、変わった岩魚だなァとこれくらいにしか思わないのは当然の事でもある。
 私が今歩いている谷は「上」でもお伝えした通り、かつて流紋岩魚が唯一、愛知川水系で棲息していた谷であるが、源頭の銚子ヶ口のたれ水にも善意放流の恩恵でイワナは、わずかであるが交配を繰り返しながら棲息している。

 養魚場の主はついこないだも上流に入渓して7〜8寸のイワナを15〜16尾釣り上げてそのまま銚子ヶ口へ登ってきたという人が居たと言っていた。すべて持ち帰りである。また銚子ヶ口は一般的ではないが色んな経路から登山口が開かれているので割合、入山者も多く、源流付近は「これは良い場所を見つけた」といって魚を捕って行く者もまれに居るという。これは私のように山奥へ入る釣り人と魚には無関心な一部の登山者であると思える。まぁまぁ、こんな事をしていればイワナの運命は閉ざされてしまう。
  元はと言えば銚子ヶ口のたれ水には岩魚は棲息していなかったと養魚場の主は言っているが善意放流も多い谷とは言え、このような状態では流紋岩魚が絶滅するのも無理はない。
 ここで流紋岩魚を中心に無斑岩魚の今昔に関して「上」で触れなかった点をもう少し詳しく掘り下げてみたい。
 琵琶湖東岸河川と西岸河川を比較すると東岸河川に棲む岩魚の方が変異に富んでいる。一説では西側の比良山系の谷より鈴鹿や伊吹山系の谷が日照時間やその強度の影響で水温上昇が激しく、厳しい氷河期を経てきた岩魚にとれば住み心地が良かったのか変異種岩魚の生態が西側に比べて活発であったという見方もある。比良水系にも特殊斑紋岩魚は棲息している話は聞いているが私は東側河川の事情しか知り得ないのでなまじ中途半端な知識では語る事は出来ないので西側の生態については割愛する。
 流紋岩魚と無斑岩魚であるがこれらはアマゴやニジマス等と天然交雑によって生まれた種ではなく、いわゆる突然変異によるものである。昭和33年、愛知川水系の源流域で初めて無斑岩魚を釣り上げた武田恵三氏は昭和43年に「釣りの友」に無斑岩魚の投稿をした事で初の報告者となった。昭和48年に流紋岩魚も含めて日本魚類学会へ琵琶湖水系に生息する特殊斑紋のイワナと題した論文を発表している。論文中、氏はこのイワナを「ナガレモンイワナ」と提唱されており、その名も定着する事になったのだが天然交雑でなく突然変異種だと述べられた論文に対して魚類学会誌委員からかなりの疑問と強い反論を強いられ、ヘモグロビン分析などその証明に相当苦労したようである。またその文中には伊吹山系のA谷で見られる流紋岩魚と鈴鹿山系のB谷で見られる流紋岩魚には個体の違いはあるにせよ、形態は同じものであるとされている。
 右の写真(武田恵三氏撮影)を御覧いただきたい。
上段がA谷、中段がB谷、下段が無斑岩魚。採集はすべて1970年代のもの。
 A谷は当時73歳であった漁協の組合長が少年時代からその岩魚を目にしていたと証言しており、またB谷では養魚場が開設された1966年以前もこの岩魚が棲んでいたと言っているので、アマゴなど他種の渓魚との交雑の可能性は低いという事である。
 また鈴鹿山系の養魚場では過去にこのナガレモンイワナを人工的に養殖していた事があるという。その実態はというと
 「流紋岩魚(メス)と通常の岩魚(オス)の交配で10尾中1尾」
 「流紋岩魚(メス)と流紋岩魚(オス)の交配で10尾中5尾」
とかなり低い確率でしか養殖出来なかった事が分かる。流紋同士を交配させても半分の確率しかないのである。しかし岩魚の事をニッコウだのヤマトだの細かくいう人は少なく、模様が歪なために一般の顧客は気持ち悪がるばかりで、ウケが悪く、養殖はすぐに取り止めたという。
 愛知川水系ではもともとB谷上流のみに棲息したとされる流紋岩魚だが、以前にも触れたように毒流し等で渓魚がいなくなった谷へ魚を戻そうと渓流釣りの有志達が様々な場所へ池田氏が創った岩魚の稚魚を放流していたのである。養魚場の主の話によればその中には当時、人工的に創っていた流紋岩魚も含まれていたという事である。ただ放流に関しては数や場所が書面などで明確な記録が残っていないため、真偽の詮索は難しい。しかし実際はB谷以外の場所でも棲息は確認されていた。
 当時大津市に在住していた根岸裕氏は鈴鹿山系のE谷で昭和51年にナガレモンイワナが釣れたと報告している。この根岸氏もまた当初はその魚の貴重さを存じぬあまり幾度か流紋岩魚を食していたようである。時代からすると武田氏などが詮索を繰り返していた時より少し後年であり、それが放流によって繁殖したものかは不明であるが1978年以降、武田氏もその谷へ3度入渓し、流紋岩魚を観察しているものの、84年にテンカラで有名な竹株希朗氏と共に探索した時は30尾の岩魚が確認されたが流紋岩魚は一尾も上がらなかったという。
 
  この谷は入口に伏流区間が存在し、途中に小滝が少し見られるが谷は3〜400mと何とも規模の小さいものである。根岸裕氏のコメントでも台風か大雨でもない限り、通常は隔絶された場所で人の足跡は皆無と記してある。しかし、ここはナガレモンに加えて通常のイワナもかなり豊富に棲息していたようであり、なぜこんな場所に魚影が濃かったのか不可解だが武田氏はA谷やB谷で見られた流紋岩魚とは明らかに異なった形態をしていたと私に言っていた事からひょっとすると善意によりイワナが放流されていた場所なのかと推測も出来る。

 現に武田氏はそのイワナのみが豊富であった谷にも、いつの間にかアマゴが侵入していたとコメントしていた。という事は少なくとも人の介在が徐々に増えたという証である。珍しい場所を好む私もこの谷はやはり除外視しており、目を向けた事はない場所であった。
 時期や詳細は割愛するが、私もその付近の谷で流れ模様へと変化する途中と言わんばかりの流紋岩魚を一尾、観察した。アマゴが侵入した時点でイワナの生態も厳しくなるワケで、これではナガレモンイワナの絶滅も時間の問題かと思われる。

 ムハンイワナについては、当時武田恵三氏がしばしば確認していたのはH谷、I谷付近であったがアマゴと人工種の岩魚が混在してきた事からH谷に極々わずかに残っているのみで、その他は皆無である。また愛知県に住むO氏は、ちょうど30年ほど前に全く違う支流のJ谷で無斑岩魚を釣り上げたという。これには戸惑いを隠せなかった。と言うのも現在この谷は堰堤が連なり、いち早くアマゴが移植され、岩魚の影は非常に薄くアマゴの谷と変わり映えしているのである。残念ながらフィルムには収めていないとの事であったがこの谷は確かに不思議な力を秘める谷であり、当時であれば特殊斑紋岩魚の棲息も考えられる。

 現在でも流紋岩魚がいくつかの谷に棲息しているが、根っからのネイティブなのかは不明であるが岩魚はもともと変異しやすい魚であるらしく、特に隔離された環境下においては突然変異する事も考えられ、今後も特殊斑紋岩魚が生まれる可能性は十分にある。
 私は素人考えでDNA鑑定なるもので天然と養殖の違いを鑑定出来ないかと思い、琵琶湖博物館の桑原氏に尋ねてみたが現在ではそれは不可能との事であった。これが可能であれば現在の特殊斑紋岩魚の生態がもっと解明されるのだが残念である。
 1970年代、流紋岩魚が棲息するのは鈴鹿3支流、無斑岩魚は鈴鹿1水系としているが平成13年現在、鈴鹿山系に関わる谷筋で私の知る限り流紋岩魚はC谷、D谷、E谷、F谷に、無斑岩魚はG谷、H谷に極少数棲息している事が分かっているが年々その数も減少しているに違いない。流紋岩魚に関して1970年代の報告ではD谷、E谷での棲息事例はあるもののC谷、F谷の記録は見当たらない。
 また紀行文は執筆していないが、私は今シーズンD谷にて二尾の流紋岩魚を確認している。一尾は正にこれから流れ模様へと変化を遂げようとする実に歪な斑紋を持つ個体であったが、もう一尾は完全な流紋であった。この谷に棲息する流紋岩魚は、他の場所で上がる個体と少し異なっている。水系が違うせいなのかそれは定かではないが少し分かりづらいが、下の写真を御覧いただきたい。
 お分かりだろうか、魚体中央の流れ模様の下部にニッコウイワナ特有の褐色斑点がうっすらと散らばっている。この手の流紋岩魚はここでしか棲息事例はない。5年前にもこの谷で流紋岩魚を確認しているがやはり同様の個体であった。

 以上のように昔と比べて現在の方が棲息する場所が多いという事実は、新たにそこで突然変異しているという事を裏付けている。ひとつ言えるのはアマゴとのハイブリッド種が増加の傾向があるため、詳細を存じぬ釣り人であれば、ひと目見て判断出来ない事もある。現にハイブリッド種は、たまに見掛ける事がある。 今シーズンになって今まで交流の無かった方からも特殊斑紋イワナについて情報を頂戴したが驚く事にまたもや、まったく違った支流で確認されていた。
 
 ただ不思議なのはナガレモンイワナとムハンイワナの両個体は決して同じ場所やその付近の支谷には棲息していない。これはその各々棲息していた場所で何らか自然の不思議な力が働いた事により変異した事を裏付ける要因と考えられている部分でもある。
  ところがある書籍の中で著者の知人の話によれば、現在ナガレモンとムハンが共存している場所が鈴鹿にあるとしている。私もそのような事は聞いた事がなく、色んな方に訊ねてみたが存じる方は未だに居ない。現実であれば流紋岩魚が無斑岩魚に比べて生息域が多いという点を含めて特殊斑紋岩魚の生態をまた違った角度から見る事が出来る新しい発見になるのではないだろうか。
 全国でもムハンイワナやカメクライワナといった変異岩魚の棲息事例はあるが、三重のイワメを含めてこれが鈴鹿の持つ何とも神秘的な世界なのである。いずれにせよ、幻の岩魚となりつつ、いや、すでに幻の岩魚と化したこの岩魚達は人目を避けひっそりと暮らしているのであり、また新たな場所で特殊斑紋岩魚が誕生している事も事実である。
 武田氏も昨今では渓にはめっきり出掛けなくなり、最近ではブナの観察にお力を注がれているようで手紙のやりとりをすれば、いつも貴方のような私よりお若い方に鈴鹿の特殊斑紋岩魚の探索、調査を期待したいと記されている事が印象深い。私も専門に調査といった大層な事ではないが特殊斑紋岩魚を色々詮索して5年になる。無の心を追い求めると同時にその方面にも時間を費やしてみようかと思う今日この頃である。

 私はこの変わり映えした衣も纏った岩魚達に鈴鹿の山の不思議な力を感じて仕方がない。正に山の精霊と呼ぶに相応しい存在であると言っても過言はないと思うのだがどうだろう。歴史や希少魚との認識を充分に理解したうえで幻の岩魚を夢見る事は良いであろうが安易な考えで希少魚と接するのは控えるべきであろう。万が一、釣れた際には他言は無用でそっと流れに戻す事を改めてお願いしたい。

流紋岩魚・無斑岩魚の軌跡を辿るにあたり、快く文献の提供及び助言を下さった武田恵三氏および
その他事情通の方に厚くお礼を申し上げたい。参考文献は以下の通り

武田恵三・吉安克彦「滋賀県の流紋岩魚」淡水魚保護協会調査報告書 第二報
武田恵三「愛知川上流、主として茶屋川の魚類について」関西自然科学 第48号9−14
武田恵三「琵琶湖水系に生息する特殊斑紋のイワナ」魚類学雑誌 21巻4号
武田恵三「野洲川の在来イワナとナガレモンイワナ」関西自然科学 第47号1−4
(財)淡水魚保護協会機関誌 「淡水魚」創刊号
(財)淡水魚保護協会機関誌 「淡水魚」第三号
(財)淡水魚保護協会増刊号 「イワナ特集」  敬称略

特殊斑紋岩魚の棲息する場所は希少魚という観点からすべて記号で称しております。また谷の記号名は実際の名称と一切関係ありません。

 何の因果でこの谷に流紋が生を成したのか不明だが不思議な力を秘めるこの谷に私は夢幻の世界を感じながら歩くのであった。
 九月に入り日中の気温は相変わらずの猛暑であるが、風はすでに秋を漂わせるような涼風が体を包み込む。朝はまたもや雨であり、遠くに見える山並みはガスで覆われ、景観は今ひとつであったがそれも束の間、FF専用区域の看板が見えた頃には雨はすっかり止んでいた。
 杣道ばかり歩いても面白くないと谷芯をジャブジャブと水に浸って行く。水は冷たい。やがてスダレ状に二段に落ちる滝が見えて来た。渇水のため、水勢は優しい流れであるが景観はなかなか良い。人工的に管理された釣り場はここで終了、右岸を高巻き、滝上に下り立てば、いよいよ自然渓流の始まりである。ここからしばらくは実に美しい滝が連続するのだが魚影はいつもながら、あまり期待出来ないので美観を味わいつつ、私は以前訪れた時に年老いた大岩魚が居た廊下へと先を急いだ。
 小滝を過ぎて谷が一旦平凡な顔を見せると、流れは大きく右へ屈折し、そこに廊下を前座とした小滝がゴルジェの中に二つ詰まっている。予想通り、水位はかなり低く、廊下の中盤辺りは底石までが透き通るほどのものであった。
 正面に向かい、仁王立ちを決めていると小さな岩魚が私の足もとから岩溝へ走り去る姿が見えた。とりあえず岩魚は居るようだが果たして奴は未だ健在なのだろうか。私は興奮する感情を抑え、静かに竿を振った。しかし釣れ上がって来たのは6寸の岩魚であった。






 しばらく試行錯誤してみたが、それ以降アタリは全く感じられない。居留守なのか良心のある釣り人に釣り上げられたのか、現れてくれないので私は奥に控える小滝の元へと左の岩場を駆け上がった。
 下り立った場所の落ち込みは私の背丈ほどの高低差があり、その上手に何とも興味をそそられる小滝が小さな釜へと注いでいる。ここなら敬遠していく人も多いかと予想していたが、どういうワケかアタリはサッパリである。今日はまだまだ先が長い、私は早々と切り上げ、そのまま遡行は出来ないのでまたもや山腹を駆け上がり、元の場所へと戻って右の涸れ谷からゴルジェ帯を高巻いて行った。

 ゴルジュ帯を抜けても小滝はなおも続く。小さな落ち込みを探りながら歩き、少し変化がほしいなと思う頃、良い案配で小滝が登場してくれる。なかなか隅に置けない谷である。しかしながら岩魚は小ぶりのものが少々遊んでくれる程度で、以前に増して魚影は薄い。
 岩魚はけっこう警戒心も強く、この辺りまでは比較的、釣り人も多いと思える。ところどころには人の足跡らしきものが散在していた。春に訪れた時に流れに戻した岩魚達は今では立派な魚体になってるものと少しは期待もしていたのだが、そう上手く行くはずもないか。
 少し小腹が空いたので炭焼き窯跡の石段に腰を掛け、おにぎりのパックを引き裂く。自然と同化する私のすべての空間がこの何の変哲もない動作の時だけ一瞬にして現実の世界へ引き戻されてしまう。これが手作りのおにぎりであれば、そうはならないであろう。カップメンにしても缶ビールにしてもラベルが見えなければOKである。

 しかし、ふと山腹を見渡すと、谷の全景を取り囲む二次林の風景が何とも言えぬ風情を演出しており、また一瞬にして山と谷の砦へと引きずり込まれる。
 偏光グラス越しに見る緑の色づきは、樹林の纏う一枚一枚の木の葉をより一層美しく湛え、グリーンシャワーといった独特の世界が広がる。
 ようやく大きな滝場に出合った。二段にねじれを利かせて大岩の溝を繊細に流れる滝である。谷の水が涸れるまでの全域で示すと、この辺りはまだ上流の係りであるが、私は、ここからが源流の始まりであり、滝場が源流の扉とでも言いたい。それは、滝上から源流帯までの間は今まで以上の渓流美が待ち構えているからである。
 倒木で遮られる右岸から滝を高巻くと、岩肌をゆっくりと流れる小滝が二つ連続している。釜は深くないが糸を垂らすと、小さな岩魚が飛び出してきた。いい雰囲気だ。
 3mほどの小滝をシャワークライムで突破して行くと、谷は少し平凡ながらも小さな落ち込みが多彩に谷を落ち着かせている。そしてゆっくりと傾斜を付けた赤みがかった岩の表面を滑り落ちるナメ床が登場する。まるで神崎川の赤ナメを想像させるほどの美しさである。ナメが終わりを告げると同時に小滝に出くわす。
 倒木を跨いでそっと滝下へアプローチし、ミミズを放り投げると6寸の岩魚が釣れ上がった。谷はS字に曲がりを見せ、その中間に位置する滝は陽光が射し込む煌びやかな一面と、これからの遡行をより一層楽しませてくれる情景であった。いずれも釜は持たぬ小滝であるがここでも岩魚達は元気よく飛び跳ねてくれる。
 源流帯へと近づき谷は平凡な装いを見せ始めるが相変わらず小滝は断続的に見られ、止まる事はない。これでもかと見せつけられる渓流美に足を止める時間も次第に増して行くが、それと同時に私の釣り欲も掻き立てられる。これは釣り人でなくとも十分に渓を堪能出来る場所である。下流域は管理釣り場という事から入渓し辛いイメージがあるが銚子ヶ口への登路しては思い掛けない谷間のコントラストに山旅の趣をより引き立たせてくれるのではないだろうか。
 しばらく魚信が無いまま遡行を続けていると、小さな廊下に目が入った。岩陰の後ろからそっと水面を覗いてみると大きな岩魚が二尾、それを連れ添うように小さな岩魚が群れを成していた。 「お、おるやないか、、」
 水深は浅く、水は岩盤までも鮮明に透き通っており、その岩魚達の姿がクッキリと見えるのである。時に岩の奥底へ隠れてみたりもしているが、一尾は浅瀬で餌を待っているようであった。
 私は気配を殺して気泡の掻き立つ落ち込みへ糸を垂らしてみた。白いぶどう虫がゆっくりと底石に躓きながら流れ行く様子がよく見える。岩魚の目の前へと竿先の舵を取って行くが「スゥーッ」と鼻先まで寄った瞬間に岩魚はクイッと、顔をそらして何も無かったかのように平然を保つのである。
 私は何度も同じ動作を繰り返してみるが、餌を水面に入れた波紋が轟く瞬間は岩魚の動きは餌を追う格好になるのだが過敏になるものの、一瞬で一向に食わない。飢えてる事には違いないのだが如何せんこの餌には興味がないようであった。
 うーん、毛鉤を使ってみるか、私はベストに偲ばせていた逆さ毛鉤を手にしてみたが、とりあえずキジを入れてみた。くねくねと踊りながら岩魚に近づいたその時、岩魚が食いついた。
 「よしっ! 今や」少し呼吸を置いてアワセを取ると、ハリ先はしっかりと岩魚の口元に食らいついた。私の竿を撓らせてくれたのは25センチの岩魚であった。見ながらにして釣る、これもなかなか楽しいものである。もう一尾はどこへ行ったのか先程釣り上げた際に場荒れし、警戒してしまったのか、その後はまったくアタリも無かった。
 気が付けば小滝群は身を隠し、谷は平凡な源流域へ突入していた。岩の間をすり抜けるように流れる水は、まだまだ豊富な水勢である。このような長い源流帯が永遠と続く。右岸に大きな台地が広がり、数多くの炭焼き窯の跡が密集している。
 源流とは言え、かなりの規模で作業がされていたと思えるがそれもそのはず、この辺りの炭焼きは大半が杠葉尾に住まいを置く者によるものであり、杠葉尾から銚子ヶ口には北尾根を行く登山道が付いているが、かつては谷尻谷を経由して神崎川の源流域に炭焼きをするためによく使われた生業の道であったのである。前半は植林帯の杉林を横目に歩く事になるが途中、長い石段の上に祠が祀られており、当時の生業にも関連があったのではないかと、ふとそんな事が頭を過ぎる。神崎川本流、風越谷の水音が徐々に薄れて行き、後半は退屈な植林帯とはうって変わり、二次林が華麗に広がった場所やブナ、ミズナラ等の自然林が広がる場所も見受けられる。この北尾根を行く道は谷を源頭まで詰めた時の退路に非常に都合が良く、私もよく利用している。
 源流帯をひたすら歩きながら小さな溜まりに糸を垂らして行くと、なおも岩魚は餌を頬張るのであった。
 源流域の魚影はなかなかであるが、この環境ではゆったりと泳げる場所も無く、岩魚の成長にも限界を感じてしまう。谷芯を切って歩くと「これはマズイ」とばかりに所々の浅瀬から小さな岩魚の影が岩底へ走り出して行く。思いもせぬ侵入者に度肝を抜いたのであろう。

とその時、何の変哲もない極小さな落ち込みに糸を垂らした瞬間、岩陰から大きな黒い影がフッと現れて餌を銜えた。
 ググッと良い手応えが竿から手元に伝わり、抜き上げると、何と26センチ強の岩魚であった。やはり岩魚という奴の力には驚かされる。思わぬ場所にもこんな奴が棲んでいるのだから。この岩魚はどことなくネイティブ色をしていたが、この谷には本当に昔から岩魚は居なかったのであろうか。炭焼きで活気溢れていた時代を思えば、岩魚を付近の谷間に入れていた事も十分に考えられる。谷に沿った踏み跡が付いた場所はこんなものかもしれない。簡単に人が立ち入ることが出来るのだから。
飛び跳ねる岩魚(映像へ)
一気にシメて腹を割ろうとナイフを入れると岩魚はまだ飛び跳ねていた。今日の釣りはこれで仕舞いにしよう。今日は平日なので人も少な
いだろう。塩焼きした岩魚を頬張った私は北尾根道へ取り付こうと山腹をトラバースし銚子ヶ口岳を目指して歩き始めるのであった。
第二十一話 完
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